このブログについて
こんにちは、いさおと申します。
マンガとたまにアニメを見てはしゃいで生きている、ポンコツサラリーマンです。
早いものでもうすぐアラサーです。
普段はtwitter( @issa_freely ) でマンガやアニメの感想をつぶやいているのですが、たまに140字×nでは表現しきれない、わちゃわちゃした感想を抱くことがあります。
そんな時が、このブログの出番です。
頭の整理も兼ねて長文感想をしたため、自己満足にひたっているのです。そしてあわよくば人に読んでもらえたらめちゃくちゃうれしいな・・・という欲もあります。
ここを読んでいるということは、このブログを見ていただいているということ。誠にありがとうございます。
記事は全て、無い頭をひねって真剣に書いたものです。興味のあるタイトルの記事がございましたら、ぜひ、のぞいていってやってください!
2018.11.11 いさお
FGO第5章『星間都市山脈 オリュンポス』ストーリー総括 ~『オリュンポス』は終わっていない~
※ この記事はFGO第2部第5章後半『星間都市山脈 オリュンポス』のネタバレを含みます!
FGO『星間都市山脈 オリュンポス』をクリアしました!とても素晴らしいストーリーでした!!!!!
クリプター編は、いったい何を描いた物語だったのでしょうか?
そもそも、クリプター編は、本当の意味で「終わり」を迎えたのでしょうか?
1. FGO第2部が描く「人理剪定」の戦いの本質
FGO第2部の戦いは、すなわち「人理剪定」です。
FGO第1部では、2015年、人類悪ゲーティアの手により、人類の歴史が焼却されました。第1部はその人理を取り戻すため、歴史上に現れた7つの特異点を修復する物語であり、主人公はこの戦いをやり遂げたことで、まさに世界の英雄となったのです。
ならば、主人公に残された道は一つ。その7つの世界全てを滅ぼす(剪定する)ことで、もとの人類の世界を復活させることです。これが、FGO第2部の戦いです。
主人公は異聞帯に乗り込むたび、この葛藤と直面することになります。そして、主人公はせめて、その葛藤から逃げないことを選択します。積極的にとは言わないまでも、それぞれの異聞帯の住人と交流し、助け、ともに暮らします。その上で、異聞帯を伐採するのです。世界を取り戻すために、異聞帯は伐採しなければならない。ならばせめてその異聞帯には誠実でありたい。そんな主人公の姿勢は、善意であふれています。
また、少しメタ的な話になりますが、異聞帯はどれも、どこか「行き止まり」の様相を呈した世界になっています。具体的には、人類が化物に虐げられていたり、人口を少数に管理されていたり、超人的な力を持つ王によって過度に庇護され多様性を失っていたりするのです。そんな「何かが欠けた世界」、はっきり言ってしまうと「主人公の世界よりどこかが劣っている世界」が異聞帯になっていることで、主人公がその異聞帯を滅ぼすことに、ある種の「言い訳」が備わっています。このおかげで、主人公の戦いに潜む「理不尽な侵略」という側面が、FGOというゲームをプレイする私たちに対して少し緩和されている側面があります。
しかしそのことは、主人公の戦いが異聞帯の人々にとってただの「侵略」であるという事実を、覆すものではありません。ここが重要なのですが、主人公が戦う理由は、結局のところ「自分の世界を取り戻すため」なんです。これは決して、他の世界を滅ぼしてもいい理由にはなりえません。異聞帯の住人からしたら、異聞帯こそ、保護されるべき「自分の世界」なのですから。また、「自分のために」戦うという行為は、すべての人がそれをしてしまうと必ず争いが生じ、平和が遠のいてしまいます。つまり「自分のために」戦うという行為は、倫理的、道徳的に推奨されるべきではない、いわば禁じ手なのです。そんな、「自分のために」という望ましくない理由のために主人公は戦い、異聞帯を次々と滅ぼしているのです。
2. キリシュタリアの「世界」
そうして4つの異聞帯を滅ぼし辿り着いたのが、キリシュタリアの運営する異聞帯、その名も『オリュンポス』でした。
そのオリュンポスを攻略する中、キリシュタリアの真の目的がオリュンポスの正史化ではないことが、最終盤で明らかになります。キリシュタリアの真の目的、それは、人類の「神化」、いわば人類のアップデートでした。
人類の知性構造は、根本的に他者から何かを奪う事で成り立っている。先で述べた言い方を繰り返すならば、人類はいつも「自分のために」行動してしまい、それゆえ平和を実現することができない。であるならば、人類という種そのものを作り替えるしかない。異聞帯の権能を使って、優れた身体、そして高次元の知覚を持つ、神に類する新たな種に人類をアップデートさせる。そうなれば、この世界は争いのない善性にあふれたものになる。それが、キリシュタリアの願いであり、オリュンポスは、その願いをかなえる場だったのです。ベストセラー書籍の命名を借りるならば、「ホモ=デウス」の実現を図っていたのです。
キリシュタリアはこれまで、自分の才能を自負し、いかに自分の能力を発揮して、優れたもの、美しいものを生み出すかに意識を向けていました。しかし、この体験で彼の目的は「自分の能力」の証明から、「人類の価値」の証明に代わります。
彼の「世界」は、自分の身体を輪郭とした世界から、文字通りこの地球上の世界そのものに、世界中の人々を包摂する世界に、大きく広がったのです。
例えば、あなたは普段、アフリカで食べ物に飢えている子供たちに、常に心を痛めているでしょうか?友人が大けがをしたら、あなたはそれを自分のことであるかのように心配し、心を痛めることでしょう。それは、友人があなたの「世界」の内側にいるからです。一方、アフリカの子供たちは、あまりにも遠い存在で、少なくとも普段は、あなたの「世界」の外にいます。だから、普段あなたはアフリカの子供たちの飢餓に対し、強い意識を向けることはありません。
この議論は、今のコロナ禍でも言えることでしょう。日本では日に日にコロナ感染者が増え、今でも、呼吸もできないほど病に苦しんでいる人々が、この国に何十人、何百人といます。そして、そんな患者を救うべく、睡眠時間を削って働く医師の方々が多くいます。私たちはそんな方々に心を痛めますが、それで普段の生活を大きく変えるかというと、そうではありません。外出は自粛しつつも、普段通りオフィスまたは自宅で働き、Zoomで友達と談笑し、娯楽に楽しんでいる人が多数でしょう。これも、今苦しんでいる患者、医師の方々が、私たちの多くにとっては、自分の「世界」の外側にいるからです。
私はなにも、そうした「世界」の外側の人への無関心を非難したいわけではありません。むしろ、人間とはそういうものであり、そうでもしないと、生きていけないのです。この世で苦しむすべての人の苦しみに思いをはせ、共感し、同じように苦しんでいては、私たちは健全な生活を送ることはできません。自分の人生を全うすることもできません。人間が他者に向けられる意識の総量には、限りがあります。人間は、まともに生きるには、どこか自分に近いところに、自分の「世界」と外界との境界線を引かざるを得ないのです。
だからこそ、争いの絶えない醜い人類の歴史を、自分のことのように憂い、自分の問題としてその解決を目指したのです。そして、「異星の神」に見いだされたことで、その解決の機会に恵まれてしまいます。そうしてキリシュタリアが着手したのが、異聞帯の力を借りた人類のアップデートででした。
3. FGOという物語の「自分」への収束
というのも、上記のとおり圧倒的な無私の姿勢を見せたキリシュタリアですら、心の奥底では実は、「自分」という呪縛から逃れられていないからです。
キリシュタリアは他の6人のクリプターを自分とともに生き返らせるべく、それぞれのクリプターと焼却された人理を取り戻す戦い、すなわちFGO第1部の戦いをシミュレーション上で行い、クリプター6人に人理復活の業績を疑似的に付与、その業績をもって生き返りの対価としたことが、作中で明らかになります。そして、キリシュタリアが他のクリプターとFGO第1部の旅をしている姿が彼の回想として明らかになりますが、その回想の中のキリシュタリアは、私たちがこれまで想像もしていなかったほど、明るく、活き活きとしているのです。
そして、キリシュタリアの最期の言葉。死の間際に彼が漏らしたのは、人類のアップデートをやり遂げることができなかった後悔でも、人類の価値への諦観でも、人理の行く末への懸念でもありません。
Aチームのみんなと、世界を救いたかったなあ。」
自らの「世界」を広げ、世界全体に対して意識を向け、世界の全てを救済しようとしたキリシュタリアですら、その一番中身の核の部分にあったのは、仲間とともにありたい、そんな「自分」の生き方の対する願いだったのです。
4. 『オリュンポス』は終わっていない
そして、FGOというこの物語自体、キリシュタリアやゼウスが指摘する「自分のために戦う」ということの弱みに、回答を提示出来ていません。下図のとおり、ゼウスが「なぜ異聞帯を殺す?」と問うた時も、主人公は「自分の世界を取り戻すため」としか答えられない。キリシュタリアが「人類のアップデート」の是非を主人公に問うた時も、主人公は、それに反対する理由を明確に説明できない。ゼウスやキリシュタリアの問いにうまく返せる選択肢を、ゲームをプレイする私たちに提示してくれないのです。
そう、FGOという物語自体が、主人公の戦いに大義名分を与えられないという、ある種の異常事態がここに生まれているのです。
つまりFGOという物語は、主人公の戦いの是非、キリシュタリアの目指した「人類のアップデート」の是非に対する回答を、プレイヤーである私たちに委ねています。FGOは、その『オリュンポス』の物語を通して、いや、『クリプター編』といわれるここまでの第2部の戦い全体を通して、主人公の戦いが本当に正義なのか、その疑問を丁寧に、重ねて私たちに提示してきました。そして、FGOという物語は、ついにその答えを自ら提示しませんでした。その答えは、私たちがこれから自力で、引き続き考えないといけないのです。
そう、『オリュンポス』は、『クリプター編』は、まだ終わってなどいないのです。
そんな未来はディストピアであるとして、FGOの主人公と同じようにNOを突きつけたいのであれば、私たちは、そんな未来に反論しなければなりません。「自分」という殻を脱却できない今の人類のままでも、よりよい未来を手にすることができることを、そのディストピアが到来する前に証明しなければならないのです。
一つ目は、世代を重ねることによる強さです。人は死にます。そして、その技術を、価値観を、次の世代の人間が受け継ぎ、自分たちなりに修正、改善して、また次の世代へつないでいきます。こうして、多くの異なる人々が順番に財産を受け継ぎ、それを進化させていくからこそ、人類は発展できるのです。
二つ目は、『オリュンポス』で武蔵ちゃんが語った、善悪相対論です。
なら、私たちはどうすればいいのか?それは、これからの「物語」が、そして私たち自身が、継続して考えていかなければならないことなのです。
現代のマンガにおける「魔女」というモチーフの意味
魔女。
その言葉に、あなたはどのようなイメージを持ちますか?
「魔法を使う女」がその文字通りの意味だと思いますが、この言葉は、それ以上の様々なニュアンスを帯びていると思います。例えば、当然魔法が使えない私たちにとって、魔法が使える人間は、遠く離れた憧れの存在。ミステリアスで、高嶺の花のようなイメージを持ちます。一方で、例えば男をたぶらかす女を「あいつは魔女だ!」というように、一筋縄ではいかない女性、というニュアンスを持つこともあります。
そして何より、「迫害の対象」の象徴として使用されることが多いでしょう。中世末期から近世初期のヨーロッパにおいて、「悪魔と契約した」と言われる女性が、異端なる存在として公的・私的に裁かれる「魔女狩り」が多発したことは、広く知られています。今でも「魔女狩り」(“Witch-hunt”)は、理不尽な迫害を意味する言葉として定着しています。
こうした様々なニュアンスを帯びる「魔女」なる存在を中心に取り上げたマンガ作品が、最近立て続けに世に出ました。まずは、圧倒的な世界観をもって描かれる超話題作の復讐譚、『はめつのおうこく』。そして、現在ヤンマガサードで連載中、蹂躙に抗う魔女たちを描く『エデンの魔女たち』。さらに、ジャンプで新連載、魔女との逃避行を描く『魔女の守人』。それぞれ人気を博しています。
なぜ今、このような「魔女」をモチーフにした作品が、連続して世に出ているのか。なぜ、「魔女」なのか。物語というものは、今私たちが求めている世界を、心のありようを映すものです(商業的にも、そうあるべきです)。であるならば、これら「魔女」をモチーフにした作品群は、同時代に世に出ている全く違った内容の作品とも、背景を同じくするところがあるはずです。
そこで本記事では、同時期に世に出ている他の作品の流れも視野に入れつつ、昨今のマンガにおけるこの「魔女」というモチーフの謎について、考えてみたいと思います。
1.あらすじ紹介
まずは上で挙げた魔女を中心に据えた3作品について、もう少し詳しくあらすじを見てみましょう。
①『はめつのおうこく』
かつては魔女がその強大な力で人類を支えていたが、科学の発展により、魔女が不要とされ、迫害されるようになった世界。主人公のアドニスは人間であるが、魔女クロエの弟子になり、本来人間には使えない魔法を扱えるようになっていた。アドニスとクロエは迫害から逃れる旅を続け、固い絆で結ばれていたが、ついにクロエは捕らえられ、アドニスの前で殺されてしまう。アドニスは、最愛の女性を奪った世界に復讐を果たすべく、魔法を手に一人立ち上がる。
② 『エデンの魔女たち』
暴力や争いのない国、エデン。そこでは、それぞれの町に魔女がおり、魔女はその力で国を霧の壁で囲い、外界に生息する化物から人々を守っていた。そしてそんな魔女を人々は敬愛し、魔女と人々は平和に協力して暮らしていた。そんな中、突然隣国の軍隊がエデンに侵攻を始める。戦いを経験せず、銃という道具の存在すら知らないエデンの人々は、その軍事力にただただ蹂躙されるばかり。愛する人々を失った魔女たちは、一つの町に集まり、終わりの見えない防衛戦に身を投じることになる。
③『魔女の守人』
異形の存在、〝魔〟(イビル)に人類が脅かされる世界。人々は町を築き、そこに人智を超えた力を持つ魔女を一人ずつ、魔女の護衛である「守人」とともに配置し、町の防衛にあたらせていた。しかし、この魔女は一定以上魔法を使うと自らもイビルになってしまう存在であり、その時には守人が魔女を殺すことが、絶対的なルールとされていたのである。守人である主人公のファフナは、広い世界も、普通の女の子としての生活も知らないままイビルへの変質を待つばかりである魔女、マナスファを手にかけることができず、マナスファの延命の方法を探して、世界の理に抗い魔女を連れて町を出る決心をする。
2.「過酷な世界で戦う」作品の存在
以上3作品のあらすじを見比べて、どう思いましたか?「魔女」の存在が共通点になっているのは言うまでもないのですが、その他に、この3作品に共通するポイントってなんでしょうか?
そう、それは、「設定の過酷さ」です。アドニスは最愛の女性を奪われて、自分以外の全人類を敵にまわす戦いに身を投じますし、エデンの魔女たちも理不尽で、圧倒的に不利な戦いを突然強要されてしまう。『魔女の守人』についても、「イビルになった魔女は守人が殺す」という世界の理に反したファフナとマナスファを、世界は許さないでしょう。こうした、突然全世界を敵に回して、あまりに過酷な戦いに身を投じていくストーリーが、これら3作品の共通点になっていると思います。
しかし、この「過酷な世界で戦う」という設定は、最近になって表れたものではありません。直近10年ばかりを振り返るだけでも、『進撃の巨人』(2009)、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)に始まり、「主人公補正」という言葉がかすむくらい容赦なく主人公やヒロインが苦しみ、メインキャラといって差し支えない重要なキャラがバタバタと死んでいく特徴を持つ作品が、マンガ、アニメ界において一大エリアを築いています。個人的には『極黒のブリュンヒルデ』(2012)、『がっこうぐらし』(2012)、『終末何してますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』(2014)、『甲鉄城のカバネリ』(2016)あたりが大好きです。
そう考えると、上記3作品で取り上げられた「魔女」というモチーフの本質が「過酷な戦い」にあるというのは、早計でしょう。もし「過酷な戦い」を導入するための舞台装置が「魔女」であるのならば、上記で挙げた作品群の中で「魔女」の作品が多数出現していてもおかしくないからです(『魔法少女まどか☆マギカ』は魔法の話ですが、主人公たちが魔女として迫害されるのではなく、逆に魔女を狩る物語なので、冒頭で挙げた3作品とは別です)。
もう少し深掘りして考える必要がありそうです。
3.「個性の重視」の広がり
そんな「過酷な世界で戦う」作品群を横目に、ここ数年ある哲学がマンガ界で勃興しているのを個人的に感じています。それは、「個性の重視」です。
他者と分かり合えたらそれが素晴らしいことであるが、だからといって、自分と他者は同じ生き物である、という前提に立ってはならない。自分と他者はどうしようもなく違う性格、考え方を備え、違う経験を重ねてきた全く異質の存在なのであり、そうした他者の性質を、自分の都合のいいように解釈したり、捻じ曲げたりするのではならない。他者のありのまま受け入れた上で、相互理解を模索しなければならない。そんな、各自の個性の重視と言える考え方を、近年の作品に感じます。「このマンガがすごい!2020」で10位にランクインした『違国日記』(2017)は、この考え方がこれでもかと詰まった傑作です。肉食動物と草食動物の相互理解の難しさを描く『BEASTARS』(2016)も、この哲学を緻密に物語に織り込んでいます。
また、近年間違いなくその解像度を上げている、セクシャルマイノリティ、あるいはハンディキャップを背負った人々などを描く作品も、この時流の一環だと思います。というのも、「自分と他者はどうしようもなく違う」という考え方が、当たり前のこととして受け入れられてきたからこそ、例えばセクシャルマイノリティの方々を「自分たちとは違う人々」と一くくりにして別に扱うのではなく、少しずつ「普通の他者」としてとらえることができるようになってきたのではないでしょうか。
セクシャルマイノリティだから、ハンディキャップを背負っているから、自分と違うのではない。そもそもどんな他者も、自分とは違う生き物なんです。それが当たり前なんです。だから、彼ら彼女らを特別扱いするのではなく、彼ら彼女らを「普通の他者」として捕らえ、そのありのままの性質に冷静に目を向ける態勢が、徐々にですが整ってきているんだと思います。
例えば、自閉症の女性との同居を描く『アスペル・カノジョ』(2018)では、彼女は確かに「一般的」ではないかもしれないけれど、確かにその「一般的」な人間と地続きの存在であることが、丁寧に描かれています。また、『ここは今から倫理です。』(2016)、『青のフラッグ』(2017)も、この文脈で読んでほしい名作です。
4.個性の重視による「過酷な世界」の変質、そして魔女狩りへ
こうした「個性の重視」が何より危惧しているのは何か。それは、「多数派による暴力」です。
少数派が多数派に弾圧されること、それは、人類の歴史の中で幾度となく繰り返されてきた悲劇です。ではなぜそのようなことが起こるのかというと、それは「多数派」、「少数派」という形で人々をカテゴライズしてしまうからです。人々を2派に分けるから、強いほうと弱いほうが生まれて、前者が後者を迫害するのです。
「個性の重視」は、このカテゴライズを否定します。人はそれぞれ互いに異なる唯一無二の存在であり、共通する存在ではない。だから、複数の人間に共通項を見出し、彼ら彼女らをひとまとめにして扱う考え方は、適当ではないのです。「個性の重視」は、個人をその所属、カテゴリー基準(つまり外的要素)でとらえることを否定し、その個人を、その個人自身の性質(つまり内的要素)でとらえることを求めます。
このポイントで、近年その裾野を広げつつある「個性の重視」は、既にその地位を確立している「過酷な世界で戦う」作品群と、合流を果たします。どういうことかといいますと、後者の「過酷」性の表現として、「多数派の暴力」が使用されるようになるのです。
『進撃の巨人』(2009)の過酷性は、巨人との戦いで表現されていました。『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)は、魔女との戦い、そしてキュウべえの陰謀という形で表現されていました。ともに、人ではない理不尽な異形を物語に導入することで、過酷性が表現されています。
一方、「個性の重視」には前述のとおり、「多数派による暴力」の否定という重要な側面があります。少数派にとって、多数派との戦いはあまりに「過酷」であるからです。
このような考えを持つ「個性の重視」が読者に広まったことで、「過酷な世界で戦う」作品群は、新たな過酷性の表現の手段を獲得します。
そう、「少数派であること」を、過酷性の表現手段として使うようになってきたのです。わざわざ巨人のような異形をださなくても、少数派を主人公に据え、多数派の人間と戦わせることで、十分「過酷な世界での戦い」は表現できることに、「過酷な世界で戦う」作品群が気づき始めたのです。いや、そのほうが、人間同士の人間を描いている点でリアルな物語になり、かつ、「個性の重視」というメッセージ性を付加価値として獲得できる分、より私たち読者の心に、訴えかけることができるようになるのです!
そして、その「少数派という過酷性」を効果的に、わかりやすく表現できる舞台装置は何か。皆さんもうおわかりでしょう。
そう、「魔女」なのです。
「魔女」という存在は、それだけで「迫害の対象」というニュアンスを備えている。事実、上記の3作品では、魔女は人間と良好な関係を築き、人間を援けてきたにもかかわらず、人間(多数派)の勝手な理論によって、その命を狙われることになるのです。そしてそんな魔女たちを見て、私たちは「過酷な世界で戦う」作品群を読むときと同じような緊張感、ワクワクを覚えるとともに、なぜ彼ら彼女らが迫害されなければならないのか、なぜ彼ら彼女らの善良なる本質(個性)に目を向けないのか、心をかきむしられるのです。
この3作品にみられる「魔女」というモチーフは、既に一世風靡した「過酷な世界で戦う」作品群と、近年広がりを見せている「個性の重視」とが合流を果す結節点である、そう私は考えます。
5.おわりに
以上、ほぼ同時期に登場している「魔女」をモチーフにした3作品に注目して、できるだけ視野を広げつつ、このモチーフの本質にせまっていきました。『はめつのおうこく』はその緻密な世界設定、『エデンの魔女たち』はその理不尽さと過酷さ、『魔女の守人』は少年マンガらしいバトル要素と、これら3作品は似ているようでそれぞれ全く違った魅力を備えています。ぜひ、ご興味のある作品からお手に取ってみてください。個人的には『はめつのおうこく』がイチオシでして、「個性の重視」が持つ、あるネガティブな副作用にまで手を付けようとしている問題作です。
また、そろそろ完結が近い『進撃の巨人』は、人外を扱う「過酷な世界で戦う」作品群の代表でありつつ、作品終盤で「少数派という過酷性」をも導入してしまった怪物作と化しています。このあたりの話もいつか記事にまとめ…たい!がんばります。
以上、お読みいただきありがとうございました!
(おわり)
【マンガ】『BEASTARS』17巻感想 ~戦っていたのは誰だったのか?~
1.高校生編(~11巻)で見つけた答え
高校生編は、演劇部員だったアルパカ食殺事件の犯人捜しが中心となって物語が進みます。そこで描かれるのは、肉食動物と草食動物という、「食う/食われる」の決定的な関係にある両者がわかりあうことの難しさです。2.社会人編(12巻~)が企図する答えの転覆
食殺犯人との決闘をきっかけに高校を中退したレゴシは、裏市近くのボロアパートで一人暮らしを始めます。タテマエの世界と裏市というホンネの世界の境界線で新生活を始めたレゴシは、アクの強い住人に囲まれながら、より自立した人間へと成長していきます。