こんにちは、いさおです。
 
BEASTARS17巻読みました。本当に、本当に素晴らしかったです。15巻から17巻が10月、12月、1月とハイペースで刊行されましたが、前の2巻で溜めに溜めたエネルギーを、17巻で一気に爆発させた感覚です。
 

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『BEASTARS』という物語を区分けするならば、~11巻を高校生編、12巻~を社会人編とできると思います(「社会人編」というネーミングは14巻掲載の板垣先生コメントから拝借)。アニメ1期は高校生編の中盤までいったそうですね。
以下、この区分けに基づく感想です。
 

1.高校生編(~11巻)で見つけた答え

高校生編は、演劇部員だったアルパカ食殺事件の犯人捜しが中心となって物語が進みます。そこで描かれるのは、肉食動物と草食動物という、「食う/食われる」の決定的な関係にある両者がわかりあうことの難しさです。
 
『BEASTARS』の世界では、肉食が草食を食べること(「食殺」)は禁止され、一見両者は平和的に共存しているように見えます。しかし目を凝らして見ると、様々な亀裂が走っている。つまり、平和というタテマエで塗り固められた世界なんです。
そんな中で、ウサギのハルに恋し、シカのルイに尊敬の念を抱くオオカミのレゴシは、肉食と草食が本当にわかりあうとはどういうことなのか、食殺事件の犯人を捜しながら悩みます。
 
そしてレゴシたちが見つけた答えは、「肉食と草食が本当にわかりあうということは、『食う/食われる』という関係を受け入れることである」というものでした。
レゴシはハルやルイを「食べたい」と本能的に感じてしまう生き物である。ハルやルイは、肉食にどうしようもなく恐怖を抱き、避けようとしてしまう生き物である。そうした互いのほんとうの姿、ホンネを認めることでしか、本当に分かり合うことのスタートラインには立てない。そんな答えを彼らは手にしていきます。
食殺犯人との決闘で、レゴシの大逆転を可能にしたルイの判断(自らの足を差し出すということ)は、彼らが「食う/食われる」という関係を受け入れたうえで気高い絆に結ばれていることを示す、象徴的なシーンなのです。
 
こうした、メインキャラたちがゆがんだ世界の中でまっすぐな、強固な関係性を構築していく様は、強く読者の感動を引き起こします。
 
そうして大団円を迎えた『BEASTARS』ですが、この後、自らが迎えたそのフィナーレを転覆させるような物語に手を染めることとなるのです。社会人編です。

2.社会人編(12巻~)が企図する答えの転覆

食殺犯人との決闘をきっかけに高校を中退したレゴシは、裏市近くのボロアパートで一人暮らしを始めます。タテマエの世界と裏市というホンネの世界の境界線で新生活を始めたレゴシは、アクの強い住人に囲まれながら、より自立した人間へと成長していきます。
 
そうした中、14巻末で、社会人編の台風の目となる存在が導入されます。メロンという男です。
 
彼はヒョウとガゼルの、つまり肉食と草食のハーフです。彼は象を殺して象牙を売ったり、裏市の暴力団のトップだったりとまあいわゆる極悪人なのですが、そんな存在に堕ちるまでの彼の人生を見ると、壮絶の一言です。
繰り返しますが、この世界は平和なように見えて、実は肉食/草食という二つの世界に分断されています。肉食は自らが食欲を抑えることで平和を享受している草食を見下しており、一方では草食は自らを食おうとする肉食を、野蛮な存在としてどこか嫌悪している。そんな世界で肉食、草食どちらのグループにも所属できない彼は、双方の悪意を一身に受け、天涯孤独の身として生きてきたのです。そしてその身体も自らのカテゴリーを定義できず、肉を食べても、植物を食べても、一切味を感じないのです。

 

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そんなメロンの存在は、レゴシを、そして『BEASTARS』高校生編がたどり着いた答えを揺るがすのに、十分すぎるものでした。
 
レゴシはメロンと出会うや否や、すぐにその存在を、自分とハルの間に生まれてくるかもしれない子供に重ねあわせます。確かに自分とハルは「食う/食われる」という関係を克服し、強い絆に結ばれるようになった。しかし、世界は依然肉食/草食が分断されており、その境界線をまたいだ関係に、残酷なほどに無理解である。レゴシとハルは変わったかもしれない、しかし世界は何も変わっていないんです。
そんな中で、レゴシとハルの関係性の結晶ともいえる2人の子供をこの世に産み落とすことは、はたしてその子供にとって幸福なのか?そして、その子供を世界から守るという厳しい人生にハルを巻き込むことは、はたしてハルにとってよいことなのでしょうか?自分は、肉食の身でハルとともに生きていいのか?
レゴシはそのやさしさゆえに、ハルとの関係性に再び悩むようになるのです。
 
そう、メロンの登場は、ハルという存在が体現する「世界のすべてがあなたの敵でも、私だけはあなたの味方だよ」という感動的なテーゼに対して、「そんな過酷な状況に、そう言ってくれる『あなた』を引き込むことは正義なのか?」とテーゼの転覆を図る、強力な一手であるのです。

3.17巻が見出した、答えの再転覆

そんなテーゼ転覆の企図に対して、決定的な再転覆を達成したのが、『BEASTARS』17巻です。
 

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ジャコウネコの一団を訪問した夜、ハルが突然レゴシの部屋を訪問します。レゴシはメロンとの出会いから生まれた上記の悩みを言葉少なに吐露しつつ、一緒に夜を過ごすことになります。
そして目覚めると、ハルの姿はなく、赤く染まったシーツがそこにあるのみ。ついにやってしまったと、気づかぬ間に本能に任せてハルを食べてしまったと、体毛がすべて白く染まるほどの絶望にとらわれます。
 
結局それはトマトジュースをこぼしたシーツで、ハルは無事だったわけですが、そこでレゴシは自らの怪物性を再確認するだけでなく、ある重要な事実に気づきます。ハルにとって、自分とともにいることは、それだけですでに大きなリスクであるのだと。一緒に寝るだけでも、横にいる男は無意識に自分を殺してしまうかもしれない。しかし、それでもなお、ハルは自分とともにいてくれているのだと。
 
レゴシはずっと、肉食/草食に分断されるこの世界の無理解と戦ってきました。しかし、メロンとの出会いを経て、その戦いにハルを巻き込むこと(つまりハルとともに生きること)に悩んでいました。ですが、そのハルは既に、レゴシの肉食性というあまりに高いリスクを前にしてなお、その死の恐怖と戦っていたのです。戦っていたのは自分だけじゃない、むしろハルこそ、最初から戦っていたのです。
 

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ハルは、自分を愛しているがゆえに、死のリスクの中で戦っている。その愛に応えない選択肢がありましょうか?いいえ、ありえないでしょう。確かに世界は無理解かもしれません。レゴシは世界を変えられないかもしれません。自分がハルとともに生きたら、ハルに負担をかけてしまうかもしれません。しかし、ハルは自分を愛するがゆえに、戦っている。その事実を前にして、「ハルとともに生きる」というレゴシの判断を揺らがせるものは、もはや何一つとしてないのです。
 
メロンは、「世界のすべてがあなたの敵でも、私だけはあなたの味方だよ」という感動的なテーゼに対して、「そんな過酷な状況に、そう言ってくれる『あなた』を引き込むことは正義なのか?」と、テーゼの転覆を図りました。
 
それに対してこの『BEASTARS』は、「『あなた』が私のために戦ってくれている。それ以外に、あなたとともに生きる理由が必要であろうか?」と、切り返したわけです。
これは本当にすごいことだと思います。
 
というのも、残酷な世界の中で生きることに対して、「身近な絆の中で生きる」、「味方をしてくれる数少ない人とともに生きる」という処方箋を出した作品は数多くあると思います。しかし、これではどこか「逃げ」のニュアンスを脱しきれていません。世界の多数が思い通りになってくれないから、仕方なく小さなコミュニティで満足しているのでは?という誹りに対して、この処方箋は十分に答えることができないのです。ニーチェが聞いたら怒りそうな、弱者の哲学といってもいい。そして、メロンのような存在にも答えを出せない。
 
しかしこの『BEASTARS』は、そんな処方箋の考え方を引き継ぎつつ、その処方箋に「逃げ」以上の積極的な意義を与えている。すなわち、「自分とともに生きるという時点で、すでに『あなた』は自分のために世界や恐怖と戦ってくれている。だからこそ、わたしは『あなた』と生きるのだ」と、喝破するわけです。
 
『BEASTARS』は、広すぎて手の届かないこの世界で、狭くてもいいから自分にとってよりよいコミュニティを築こうとしている私たちに対して、その「逃げ」を叱咤しつつも、その「逃げ」を突破するヒントを、与えてくれているように思えるのです。
 
 
以上、お読みいただきありがとうございました。
 
(おわり)