アタシポンコツサラリーマン

ポンコツサラリーマンが、マンガ・アニメについてつらつらと書きます。不定期更新ですが、気が向きましたらぜひぜひお立ち寄りを。

【マンガ】雪女と蟹を食う 〜現実と非現実、そしてコントラスト〜

 こんにちは、いさおです。

 

2019年もはや終わりにさしかかっています。忘年会とか同窓会とかいろいろイベントがあってせわしない1ヶ月になっているのですが、今年はその中でも少し変わったイベントを経験しました。

それは、マンガ口コミサイト「マンバ」さんが企画する、「マンガプレゼン大会」というものです。有志が集い、5分の持ち時間で「今一番推しているマンガ」をプレゼンする、というものです。毎年企画しているそうなんですが私は昨年知りまして、次こそはぜひ出よう!と思ったわけです。

 

manba.co.jp

 

しかし、いかんせん自分はプレゼンというものの経験があまりありません。家にこもってマンガを読み、twitterやブログに感想を書いてその閲覧履歴によろこぶのが関の山の人間なのです。

そこで、プレゼンをいきなり練るのではなく、まず話したいことを幾分ホームグラウンド感のあるブログにしたため、それを5分スピーチにまとめよう、ということを考えました。本ページは、そうした経緯のもとで生まれた、「講演を記事にしたもの」です。いや、絶対5分で話せない分量になってしまったので、「ロングバージョン講演を記事にしたもの」か。

え?記事を講演にするのだから、逆じゃないかって?いやいや、「講演を記事にしたもの」の方が、講義を本にして売っている専門家みたいな感じで、カッコイイじゃないですか!

 

では、ここから講演内容です。よろしくお願いいたします!

 

0.ご挨拶

こんにちは、いさおと申します。本日はよろしくお願いいたします。

私が「今一番推しているマンガ」は、ヤングマガジンで連載している『雪女と蟹を食う』という作品です。まずあらすじを紹介した後、本作の内容の魅力について詳細にお話しして、最後に、本作の表現・画の魅力について少し言及できれば、と考えております。

では、あらすじからです。

 

 

1.あらすじ

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うだるような暑さの中、主人公の「北」が首を吊ろうとするところから、物語は始まります。

北は訳あって強い自殺願望を持っているのですが、勇気が出ず、なかなか自らの首を縄に委ねることができません。

そんな中、死ぬ前の最期の逃避として、生涯食べたことのない蟹を食べに、北海道に旅行に行くことを決意します。しかし、金がない。

そこで、図書館で見かけた美人な人妻の後をつけ、強盗に押し入るのですが、北は半ば誘われるように、人妻と交わることとなります。

突然身体を許した人妻に戸惑う北は強盗の理由をこぼすと、人妻は雪女のような冷たい微笑みで答えます。「いいですね、蟹・・・私も食べたいです」

北と人妻の、北海道を目指す不思議な旅の幕が上がるのです。

 

 

2.非現実を描くことで、現実を描くということ

本作の魅力とは何か。端的にいうと、「非現実を描くことで、現実を描いている」ことだと私は思っています。これはどういうことか。

 

(1)北の感情に対するレアリズム

北は戸惑いながらも、強盗先の人妻、彩女さんとの2人きりのドライブ旅行を始めます。当初は、どうせ北海道に行って蟹を食べたら終わらせる人生、深い考えもなく旅に身を投じます。

出発してみると、当然ですけど、めちゃめちゃ楽しいんですよこの旅行。いろんなご飯を食べられて、観光地に行って、夜は体の欲望を満たして・・・ そしてその全てにおいて、そばに彩女さんがいて、優しく微笑みかけてくれる。死ぬ前の享楽が、彩女さんによってどんどん膨れ上がっていきます。

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すると人間、捨てたはずの欲望が再び起き上がってきます。自殺するということは、この世に未練がないということです。もはやこのまま生きていても意味がないということです。しかし、今ではそばに彩女さんがいて、すごい楽しい。だから、生きることに意味が生まれます。でも、彩女さんはあくまで人妻なんです。この夏が終われば、旅行も終わって、彩女さんは夫のもとへ帰っていく。だから、一瞬生まれたこの「生きる意味」は、長くは続かない。この事実に、北は苦しみ始めます。

そんな享楽の刹那性に苦しむ北に対して、彩女さんはより一層の享楽を持って応えます。というのも、北さんより、むしろ彩女さんの方がこの旅行を強く、堕落的に楽しむ姿が多く描かれていきます。彩女さんはただ北の旅行のお供をするだけでなく、死ぬ前に享楽に浸る、という北の生き方を肯定してくれるのです。

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北にはこれまで、そんなふうに深いところで自分を肯定してくれる存在はいませんでした。そのことは、作中で語られる北が自殺願望を持つに至った経緯をみると明らかです。北は、初めて自分の深いところを肯定してくれた彩女さんに、旅のお供、あるいは体の欲をぶつける相手以上の、情愛のようなものを抱き始めるのです。

 

以上のように、本作は「強盗に入った先の美女に気に入られて北海道までデートすることになる」という荒唐無稽な設定を採用していながら、その中で目まぐるしく変遷する北の感情の変遷を、「確かにこういう状況ならこう動くなあ」という風に現実的に、丁寧に、細かく描いていきます。

非現実的で夢のような世界を描いていながら、その底流には、北の自殺願望、そしてそれを前提とした北の彩女さんに対する感情の変化を丹念にシミュレーションし、それを写実するレアリズム(写実主義、現実主義)が息づいているのです。

 

(2)本作自身の非現実的設定に対するレアリズム

本作は、上記の感情描写におけるそのレアリズムの銃口を、やがて自らのこめかみに当てることとなります。

 

即ち、本作のレアリズムはストーリーが進むにつれて、本作の根幹にして最も非現実的な設定、「彩女さんが強盗犯である北を受け入れ、旅に同行すること」の理由に切り込み、その理由を明らかにしてしまうのです。

理由を明らかにするということは、その出来事を合理的に、現実的に説明してしまうということです。したがって、ここで「彩女さんは北を救済するために同行してくれているんだ」とか、「彩女さんは北のことが好きなんだ」とか、そういう夢のある、非現実的な本作の解釈が一切排除されてしまうんです。

 

この、レアリズムの最大の被害者は、他でもなく本作の主人公、北です。

自殺の前の最後の「現実」逃避として夢のような旅行を始めたにも関わらず、その旅行も「現実」の世界でしかないことが、彩女さんの旅の理由の開示によって明らかになる。この夢のような旅が、神様が与えてくれた奇跡でも、これまで恵まれてこなかった北に対する不思議な救済でもないことが、その旅を北に与えた本作自身のよって容赦無く暴かれてしまうのです。

 

彩女さんとの旅を華々しくスタートさせた末に北に残されたのは、結局は自殺を図った現実から逃れられていないという結末のみ。

それは、ただ北の自殺を淡々と描くよりも、よほど北の現実の絶望性が強調されていて、残酷ではありませんか?

 

まさに、夢を描くことで、ただ現実をそのまま描くよりも印象的に、現実を描いている、そう言えると思います。

 

 

3. 享楽を描くことで、苦しみを描くということ

また、本作では上記の感情描写のように、ストーリー展開が北の感情、彩女さんの旅の理由をもって緻密に描かれていることで、「夢のような享楽に耽っても、結局は必ず現実の苦しみからは逃れられない」という結末の必然性を感じます。北が一旦享楽に溢れたこの旅を始めると、ルートの分岐点も逃げ道もなく、絶対にこの結末に行き着いてしまうような、そんなストーリーになっているんです。この必然性は、そのまま「享楽のはかなさ」という本作のメッセージ性の強さにも直結していると考えます。

 

享楽を描くことで、苦しみを描いている、とも言えるのかもしれません。

 

 

4.コントラストの視覚化

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最後に、本作の表現的な部分についてお話します。

ここまでお聞きいただけた方はもうお分かりのとおり、本作は様々なコントラストにあふれています。

 

非現実を描くことで現実を描く。

享楽を描くことで絶望を描く。

 

こうしたコントラストは、本作の表現、画の側面で象徴化、視覚化されています。

例えば、本作が夏を舞台にしていること。夏といえば、溌剌としいて、心がワクワクするような季節ですが、そんな季節を舞台に、本作は北の静かな絶望を描いていきます。

そして、そんな夏の暑さの中で旅のお供をするは、はかない雰囲気を漂わせる、雪女のような美女

 

そんな相反する要素が内容、舞台、画といった様々な側面に散りばめられた本作を読むと、本作が描いているものが夢の世界なのか現実なのかわからない感覚にとらわれていきます。

寝起きの夢うつつの感覚のような、

あるいは、夏の暑さに朦朧とするかのような、

あるいは、酩酊するかのような・・・

 

そんな「酔い」を感じずにはいられないのです!

 

5.おわりに

以上、『雪女と蟹を食う』という、コントラストにあふれた摩訶不思議な世界を紹介いたしました。

本作はヤングマガジンでまだ連載が続いているのですが、ついに二人が北海道にたどり着き、いよいよ目が離せない、そして先の読めない展開となっています。

ぜひ、本屋さんで本作を手にとっていただき、本作の唯一無二の読後感たる「酔い」を感じていただければと思います。

 

ご静聴ありがとうございました!

 

 

(おわり)

 

 

雪女と蟹を食う(1) (ヤングマガジンコミックス)

雪女と蟹を食う(1) (ヤングマガジンコミックス)

 

 

 

 

 

【マンガ】『鬼滅の刃』が剥がす、鬼退治の価値観のベール

(またまたnoteで書いた記事が思いの外気に入ったのでこちらにも転載シリーズです。)

 

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鬼滅の刃』18巻を読みました。本当に面白かったです。

 

アニメ化を通して押しも押されぬ日本を代表するマンガとなった本作、その評判に違わぬ素晴らしいストーリーです。本作は人を喰らう鬼を狩る「鬼退治」物語の一つですが、その中でも集英社は、本作を「日本一慈しい(やさしい)鬼退治」としてPRしています。

これは、本作における鬼の位置付けによるものです。確かに本作に登場する鬼の多くは、ただ自らの欲のために人を喰らう畜生ですが、彼らは元々は人間なのです。そして、主要な敵として炭治郎たちの前に立ちはだかる鬼の中には、鬼と化す過程に同情を禁じ得ないような、過酷で悲しい過去を持った鬼が少なくありません。18巻で描かれたのは、そんな鬼の代表例でした。そして、そんな鬼たちに対して、炭治郎は容赦なく立ち向かいつつも、憐憫の心を抱いてしまうのです。そんな一幕は、確かに「慈しさ」を思わせます。

しかし、見方を変えると、この鬼の描き方は「鬼退治」物語の根幹を揺るがすものだと私は感じます。それは、「鬼を退治することは正義」という、「鬼退治」物語を物語の王道たらしめる価値観を剥いでしまうものだからです。

これはどういうことか。

1.「鬼退治」物語の原型

 

日本で生まれた私たちにとって、「鬼退治」物語の原型とは何でしょうか。私は「桃太郎」ではないかと考えています。桃太郎は成長するやいなや鬼の退治を宣言し、犬、猿、雉を味方につけ、鬼ヶ島を攻略します。そして、多額の金品を持ち帰るのです。

この昔ばなしにおいて、「なぜ鬼を退治しなければならないのか」という鬼退治の理由については、多くは語られません。ものによっては「鬼は人々を襲い金品を奪っている」といった簡単な背景説明がなされるものはありますが、それがなくても、私たちはこの「桃太郎」という物語を受け入れるのです。

 

これは、私たちの遺伝子に、「鬼=悪」という価値観が植え付けられているからだと思います。特に背景説明はなくとも、物語において「鬼」という言葉が用いられたら、私たちはそれを「悪」と認識するようにできている。ゆえに、私たちは自動的に「鬼退治」は正義であると認識するようにできている。私はそう考えます。

2.「鬼退治」物語の複雑化

 

しかし、にっぽん昔ばなしならそれでいいですが、現代の大衆向け作品では、物語の長編化、複雑化が求められます。わかりやすく言うと、読み切り作品だけではなく、一冊の本にできるような、さらには長期連載できるような作品が商業的に求められます。

そうすると、「鬼は悪」という単純な価値観だけでは、物語のギミックとして不十分です。だから、「鬼は悪」という価値観に、都度理由づけがなされるようになります。実際に人を襲う場面が丹念に描かれたり、鬼に個性が生まれたり、鬼の目的が複雑化(世界征服など)したり・・・

 

その傾向を極限まで進めると、やがて、鬼の主張は合理性を帯びるようになっていきます。すなわち、「鬼は悪」という考えへの理由づけとして、鬼が人に危害を加えるさまやその背景を丹念に描きすぎると、人に危害を加えるという鬼の行動が、一筋縄では否定できない「理由」を獲得し始めるのです。例えば、「人は自然を破壊する愚かな生物だから滅ぼすのだ」とか、「かつて鬼の領土だった土地を人間が無理やり奪ってきたから、それを取り戻すために戦っているのだ」とか・・・。

そうなると、「鬼退治」の正義性は揺らぎを見せ始めます。この場合、物語は解決策として、人と鬼との対話を描く方向にシフトします。人、鬼双方の主張に合理性があり、どちらかを悪を断じることはできない。だから、対話を通して融和を図り、種族の共存を達成するのです。

3.「鬼退治」の詰みとその脱却 〜ベールを剥がすということ〜

 

しかし、その対話すら許されないケースがあります。それは、「一筋縄では否定できない背景を持った鬼個人が、人を殺しまくっている場合」です。上記の人・鬼種族間対立の場合は、団体と団体の対立です。そして、団体であるがゆえに、人側・鬼側それぞれの中に、融和派から対立派まで立場にグラデーションがある。だからこそ、それぞれの団体の融和派が手を結ぶことで、対話の道が開ける。しかし、相手が鬼個人だと厄介です。その鬼は立場のグラデーションどころか、人間に対して敵意100%なんです。だから、対話の余地はない。しかし、人間を憎むことにはある合理的な理由があって、この理由を正義をもって断罪することは難しい。

ここで人間は、「正義」という看板を持っている限り、ただこの鬼に殺されるがままなす術が無い「詰み」の状態になります。

 

この臨界点に達したのが、『鬼滅の刃』という作品である。私はそう考えています。

 

では、『鬼滅の刃』はこの「詰み」をどのように脱却したのか。正義をもってしてこの鬼を断罪できない、そんな中でも、この鬼を断罪できる理由はあるのか。

 

一つだけあります。

 

それは、「自分(たち)を殺してくるから」という理由です。

 

この鬼は、放っておくと自分を、そして自分の大切な人(妹など)を殺す。だから、鬼を殺してもいい。

鬼滅の刃』は、この論理で、悲しい過去を持った、人を殺すことに一種の合理性を持った鬼たちを、容赦無く狩るのです。そこに、「正義」といった理性的な概念はありません。「殺さなければ殺される」、そんな動物のような野生の論理で、彼らは戦っているのです。

 

そして、だからこそ、この『鬼滅の刃』という作品は、私たちの心の奥底を揺さぶるのです。上記の野生とは、ドラマから「鬼は悪」という価値観のベールを、正義といった理性を、あるいは理屈を剥いで、削って、捨て去ることで、最後に残る「ドラマの核」なのだと私は思います。

言い方を変えるならば、この野生的な「鬼退治」は、私たちがかつて野生動物だったことから引き継いでいる何かを、呼び起こしてくれるのです。

 

鬼滅の刃』は、まさに最先端にして野生的な「鬼退治」と言えるでしょう。

 

ますます戦いが激化する『鬼滅の刃』、今後も見逃せません。

 

(おわり)

参考:

www.youtube.com

 

 

 

 

AIが創作した「感動的な」創作物に、私たちは感動できるのか?

こんにちは、いさおです。

noteで書いた標記記事が個人的に気に入ったので、はてなブログにも転載します。

どうぞよしなに。

1 『仮面ライダーゼロワン』5話を見て

 

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2019年10月12日、史上最強とも言われる台風19号の襲来に見舞われている関東地方では、外出ができません。

 

一日中家で過ごすことしかできず、とりあえず溜まった録画を消化しようと考え視聴したのが『仮面ライダーゼロワン』5話だったんですが、いやあ、めちゃくちゃおもしろかったです。

本作では、『ヒューマギア』という、AIを搭載した人間と瓜二つのロボットが、人間のサポートとして労働しています。5話では、ヒューマギアを製造している会社の社長である主人公が、大人気マンガ家にヒューマギアをお届けする話だったのですが、マンガ家の家に行ってみると、マンガ家は、プロットを出版社に、作画を全てヒューマギアに任せきりにしており、自分は一切働いていなかったのです。その事実に、マンガ家の大ファンだった主人公は強くショックを受けます。

 

この話のオチとしては、マンガ家が「情熱を失ったマンガ家はヒューマギアに負けてしまう」と悟り、再びペンをとるようになるのですが、この話は非常に示唆的です。AIが作画しているにも関わらず、そのマンガは「マンガ家の創作物」として完璧で、依然読者を惹きつけているのです。しかし、「AIが作画している」という事実が明るみになると、がっかりしてしまう。プロットまでAIが創作しているとなったら、そのがっかりはもっと強いものになるでしょう。

私たちは、同じ創作物でも、なぜ人間が創作していたら素直に感動できるのに、AIが創作していると判明していたら、がっかりしてしまうのでしょうか?

2  そのがっかりの原因は「作為性」なのか

 

仮面ライダーゼロワン』のお話のように、AIが精巧なものになる程、おそらく私たちは、人間の創作物と、AIの創作物との区別がつかなくなります。したがって、AIの創作物にがっかりする原因は、AIの創作物の内容ではなく、「AIがそれを創作した」という事実にありそうです。

 

ではなぜ、「AIがそれを創作した」という事実にがっかりするのか。それは、AIという存在が、本質的に人間の作為の下に生まれたものであるからではないでしょうか。AIが何かをできるようになるためには、まず、必要な情報をAIに学習させる必要があります。人間が感動する作品とはどのようなものなのか、人間が惹かれる作画とはどのようなものなのか、その他感動的な作品を創作するためのエッセンスを入力されることで、AIは「感動的な作品」の創作の仕方を自ら学び、それを出力します。つまり、AIの創作物は全て、そのAIに「こういうプロット、こういう作画なら、人は感動する」ということを覚えこませた人間の産物なのです。

 

そうなると、AIの創作物に感動したあなたは、いわばそのAIに学習させた科学者の狙い通りに動いているわけです。科学者が、「こういうのお前ら好きだろ?」と組ませた創作物に、見事にはまってしまう。このことは、「感動」という、あなたの最も自由で原始的なはず衝動を、顔もわからない他人の作為にコントロールされていることを示しています。「がっかり」どころか、恐怖すら覚えかねない事実です。

 

ここで、今この記事を読んでいただいている方は、おそらく次のようなことを考えるでしょう。

 

「いや、人間の創作物も、ひどく作為的なものでは?」

 

と。これは全くもってその通りでして、世の中の作家らは、何も自分の好きなことを好きなように書いて、それがたまたま読者の琴線に触れているわけでは決してないでしょう。作家らは、どのようなプロットを組んで、それをどのような形で表現すれば、読者の心に響くか(有り体な言い方をすると「売れるか」)、めちゃくちゃ考えて創作していると思います。つまり、作為的に「感動的な創作」を生んでいるわけです。

 

しかし、私たちは人間の創作物に対して、何の違和感を持たず感動しています。以上より、「AIがそれを創作した」という事実にがっかりする原因を「作為性」に求めるのは、少し検討が足りないようです。

3 「作家」という神話

 

あなたは、創作物における「キャラ」を、単なる紙の上の仮装の存在として捉えていますか?

 

「キャラ」をそのように捉える人間は、物語を愛する人ほど、少ないように感じます。現在のオタク文化では、キャラが好きなあまり、そのキャラの誕生日にケーキを買って誕生日会を開いてしまう人もいます。

そこまで極端でなくとも、あるキャラについて、「この子は、この女の子が生きていると世界が滅んでしまうとわかっていても、女の子が好きだから、世界の滅亡を選んだんだね・・・」というような形で、あたかもそのキャラがこの世界に実現する人間であるかのように話す人は、非常に多いと思います。その子は、ある作家が創作した物語の中の存在でしかない以上、「この子は、この女の子が生きていると世界が滅んでしまうとわかっていても、女の子が好きという設定だから、世界の滅亡を選ぶ物語になったんだね・・・」という方が、正確な表現であるというのに。

 

何が言いたいのかと言いますと、私たちはキャラたちを、私たち同様「自分で考えて生きている存在」として捉えます。私たちはよく創作物の世界を「2次元」と言いますが、私たちのキャラとの向き合い方は、「3次元」にいる現実の人間との向き合い方と同じなんです。キャラは、作家が生み出し、作家が考えたとおりに動く存在でしかないというのに。

 

ここに私は、「作家」という神話を見ます。すなわち、キャラは「現実に存在している作家という存在(3次元)が創作したもの(2次元)」であるというのに、扱いが3次元に昇格している。これに引っ張られて、作家が4次元に昇格しているんです。わかりやすく言うと、作家は「神」(「創造主」)という扱いになって、私たちの見えない遥か高いところに隠れた状態になっている。だから、私たちは、私たち自身の行動や考え方に誰かの作為を感じないように、キャラの行動や考え方に、誰の作為も感じず、感動できるのです。

しかし、AIは「神」ではなく、人間が製作した機械、すなわち私たちの世界に目に見える形で存在する3次元の存在です。だから、AIの創作物は「2次元」という一つ次元の下がった存在として扱われる。私たちは、私たちより次元の低い存在には感動できないのです。

 

物語を創作する人間は「神」であるがゆえに、私たちは有史以来「物語」というものに感動してきました。しかし、「物語」を創作できる人間ではない存在、すなわちAIが現れたことで、私たちは有史以来初めて、「本質的に感動できない物語」に出会ってしまったのかもしれません。

4 AIの創作物に、私たちは感動できるのか?

 

では、私たちはこの先ずっと、AIの創作物には感動できないのでしょうか?

 

この先AIは、ますます私たちの社会にとって欠かせない存在になっていくでしょう。複雑な作業を人間の代わりにやってくれたり、仕事でより良い事業提案をしてくれたり、プライベートで明日着る服を提案してくれたり・・・ AIのできることはますます広がり、AIはますます、機械というよりも人間に近い存在になっていくのでしょう。

その末に、AIが人間と同じ存在となったら、人間の作家と同じく、創作AIは「神」の地位に到達できるかもしれません。そうなれば、もはやAIの創作物の「作為性」は目に見えなくなるのでしょう。

 

AIが「機械仕掛けの神」になった時、私たちはAIの創作物に心を奪われるのです。

 

 

(おわり)

 

P.S.  ちなみに、この先AIがさらに発達したら、人間との関係性はどうなっていくのだろう?というお話が好きな方、山田胡瓜先生の『AIの遺電子』、『バイナリ畑でつかまえて』を読むと幸せになれるかもしれません。オススメです。

 

AIの遺電子 1 (少年チャンピオン・コミックス)
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バイナリ畑でつかまえて (新編)
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