アタシポンコツサラリーマン

ポンコツサラリーマンが、マンガ・アニメについてつらつらと書きます。不定期更新ですが、気が向きましたらぜひぜひお立ち寄りを。

青春の入口と出口を描く2作品から、青春を考える

こんにちは、いさおです。

 

やっとお盆休みを迎えまして、漫画読んで高校野球見て酒飲んで、人生の春(夏)を謳歌しています。

 

中でも、今年の高校野球は例年より逆転劇が多いのかな・・・?という印象を勝手に持っています。

済美vs星稜とかやばかったですね、逆転サヨナラ満塁ホームランで13-11ですよ・・・

 

https://baseball.yahoo.co.jp/hsb/game/2018081263/top

baseball.yahoo.co.jp

 

このように、高校生活をかけて積み上げてきた経験・実力をぶつけ合う、非常にレベルの高い戦いであると同時に、少し気を抜いたらすぐにひっくり返ってしまう不安定な試合展開。

そこに青春の濃さとはかなさを感じる、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

しかし、もちろん当の選手たちはそれどころではありません。青春?知らんわ!こちとらクソ暑い中必死で野球やって、楽しんで、そして勝つだけや!!と言われるのかもしれません。

 

 

いや実際、青春っていったいなんなんでしょう?

青春の真っ只中にある中高生が、実感を持ってこの「青春」という言葉を使うことは多くありません。たいてい、いわゆる青春の季節を過ぎた大人たちが、ある種身勝手な感傷を持って使う言葉だと思います。

 

 

本記事では、その「青春っていったいなに?」を気ままに考えたいと思います。

そこでその材料にしたいのが、次の名作。

 

『神様がうそをつく。』

『魔法が使えなくても』

 

f:id:issa_freely:20180814181252j:plain

 

なぜこの2冊なのか。最近自分が読んで感銘を受けたから、というのもあるんですが、大きいのは、2冊それぞれが、青春の入口、出口を描いた作品であると考えられることです。

青春そのものを描いた作品(例えば高校の部活もの)ではなく、あえてその季節の周辺を描く作品を考えた方が、青春の何たるかを浮き彫りにできるのではないか、との考えです。

 

 

では、本論に移っていきます。

流れとしては、まず両作品の概要と青春との関わりをそれぞれ論じ、次にそれを踏まえて青春の何たるかをまとめてみます。そして最後に、その青春を私たち大人は再び取り戻すことができるのか、というのを少し考えてみようと思います。

 

 

 

1.両作品の概要と、青春との関わり

(1)神様がうそをつく。

f:id:issa_freely:20180814183531j:plain

 

まずは作品紹介から。

 

主人公の小学6年生、夏留は、ある日ひょんなことからクラスの女子、理生の家に行くことになる。家には、理生と弟の2人だけ。理生は弟と二人暮らししているらしい。

自分と同じ12歳の子供が親のいない環境で過ごしていることに衝撃を覚えながらも、夏留は理生との交流を深めていく。そんな中、物語の中盤で、理生がそのような生活を強いられている悲しい背景が明らかになる。これまでの自らの人生からは想像もつかなかった壮絶な環境で生きている理生を、自分は救うことができるのか。夏留は深く思い悩み、そして大きな一歩を踏み出していくことになる・・・

 

という作品です。

 

本作は様々な解釈が可能な名作です。その解釈の中でも、私は、夏留の「世界の広がり」という点に焦点を当てたいと考えています。

理生の境遇は、夏留にとって非常に衝撃的なものでした。親と暮らしていて、いつでも甘えることのできる存在がいて、経済的な問題も自分で特別に気にする必要は無い、という自らの家庭(及びそれに準じた友達の家庭)が自らの世界の全てであったところ、その世界とはかけはなれた世界、全く新しい世界と夏留は出会うことになるのです。

 

そしてだからこそ、夏留は物語の終盤で、理生を救うべく、ある行動をとることができるのです。

具体的に論じましょう。大人である私たちは、悲しいことに親のまっとうな養育を受けられない子供がこの国には一定数いるという事実、そして、そういう子供を救うためには、行政の協力、親との交渉等様々なハードルがあるということを、とうの昔に認識しています。

しかし、夏留はそれを知らない。理生の世界は、夏留にとって知りたてほやほやの世界であり、理生に対して自分一人で何ができるのか、理生を救うには何が必要であるのかを、明確に認識していません。

それゆえ夏留は、一人で理生を守ろうと決意し、それを実現に移すことができたのです。

 

ここに私は、12歳という青春の入口の時期にある夏留の、青春への第一歩を見ることができると考えます。

 

(2)魔法が使えなくても

 本作の概要は以下の帯裏を見ていただくのが一番伝わりやすいかと思います。

 

f:id:issa_freely:20180814182349j:plain

 

以上をお読みいただけると一部お分かりのとおり、本作、特定のメインキャラが入れ替わり入れ替わり登場する短編6作から成る、群像劇です。

そして、そのメインキャラのほとんどは、いわばポスト青春世代。「青春群像劇」と銘打たれてはいますが、実際には、青春を過ぎ去り、仕事という現実と向き合いつつある若者を描いています。

 

例えば、アニメーターの岸くん。

彼は実は同僚の千代ちゃんと同郷で、その頃から片思いだが、職場でまさかの再会。しかし仕事でも恋愛でも千代ちゃんから遠ざかるばかりで、自らの限界と否応なく向き合うこととなります。

次にバンドマンのたまき。

この人こそ千代ちゃんの同棲相手。その圧倒的かっこよさは岸くんの心を粉々に砕いて余りあるものなんですが、実は絵を描くのが好きで、しかし絵心がなくとりあえず楽しくバンドをやっている。でも全然売れない。

 

メインキャラはほとんど、自分の力では望みどおりのものを手に入れることができないことに、気づいているのです

それでも、望みのものを手に入れるべく、岸くんたちは前に進みます。そうすれば、50%くらいは望みのものが手に入るかもしれないし、思いもよらない掘り出し物が転がり込んでくるかもしれない。そう思わせてくれる作品です。

 

本作のキャラたちに共通しているのは、繰り返しになりますが、自らの力不足の自覚です。天井にぶつかったと言ってもいい。

「まだ望みを手に入れられてないけれど、頑張っていれば手に入るだろう」、から、「自分の力では望みを手に入れられないけれど、何とか頑張っていこう」、にシフトしている者たちを描く作品です。

このシフトこそ、青春の出口の門をくぐることに他ならない、と私は考えます。

 

 

2.  青春っていったいなに?

さて2作品の内容及び青春との関わりを詳細に見ていきましたが、ここまで検討しますと、青春の定義は

 

・世界の認識

・能力の認識

 

の2軸に基づき整理できると言えるのではないでしょうか。

 

夏留くんは、理生の境遇という新たな「世界」を認識した。しかし、理生のような子供を救うのに必要な「能力」(経済力、行政的手続等)を認識していなかった。

岸くんやたまきは、アニメーターの世界、バンドマンの世界、さらには「千代ちゃん」という世界を認識し、さらにはその世界をクリアするのに必要な能力(そしてそれに対する自らの能力の不足)もある程度認識してしまっている。

 

つまり、以下表のような整理が可能です。

 

時期

世界の認識

能力の認識

幼年期

×

×

青春期

×

大人

 

 青春とは、

「新たな世界の様相を認識したが、その世界の踏破に必要な能力を認識していない状態」

と定義できるのではないでしょうか。

 

定義ですので抽象的な言葉を並べましたが、RPGゲームでいうと非常にわかりやすいと思います。

幼年期というのは、例えばチュートリアルで、まだエリアマップを開くことができない状態。

そして青春時代は、チュートリアルが完了し、ある程度ゲームが進んでマップも解禁でき、一方でボスを倒すにはどのようなステータス振りが必要かがまだわからず、ボスを倒せる日を夢見てステータス上げに勤しんでいる段階。

大人とはいうなれば、ボスと数度戦い、ボスを倒すのに必要なステータスの高さを認識し、ほとんどの場合「あ、ボス倒せないわ」と自覚した状態です。

 

なお、ボスを倒せないゲームは無いはず(たぶん)なので、RPGゲームでは「めっちゃ成功した大人の人生」を追体験できるわけですね。

 

また、冒頭の例に話を戻しますと、甲子園で躍動する高校球児は、甲子園という世界を認識しつつも、甲子園で優勝するには具体的にどれほどの能力が必要なのか、明確には認識していない(認識するということは、諦めるか、優勝を半ば確信するかのいずれかを意味します)。だからこそ、今私たちがテレビで目にしているように、「青春」の真っ只中にいると言えるわけです。

 

 

3.私たちは青春を取り戻すことはできるのか

最後に、上記の青春の定義に基づき、私たち大人は高校野球を見て青春を感じるだけでなく、自ら青春の演者になることができるのか、少しだけ考えて、締めたいと思います。

どうせなら、青春のきらめきを取り戻したいですものね。

 

青春期と大人の違い、それは、「能力の認識の有無」です。

ある世界をクリアするのに必要な能力はどれほどのものなのかを認識することで、私たちは青春時代を抜け、大人になります。

 

しかし、一度認識してしまったものをきれいさっぱり忘れることは、人間にとって不可能です。記憶喪失にならない限りは。

よって、その意味で私たちは青春時代に戻ることは二度とかないません

 

一方で、これまである程度その概要を知ってはいたが、飛び込んだことはない世界に身を投じてみたとしたら、どうなるでしょう。

 

例えば、月並みですが全く新しい趣味を始めてみる

メジャースポーツだと、端から見てる分だけでもある程度必要な能力がわかってしまうので、イマイチかもしれません。どんな人だと一線級になれるのか、イメージがあまり湧かないような分野に身を投じてみると、その世界に限っては、あなたは「能力の認識がまだ完了していない」段階です。つまり、青春できる条件が整っています。

 

しかしやりすぎもまた、よくないかもしれません。

例えば、全く知らない国に自分さがしの旅に出る。これは下手をすると「世界の認識」すらできていない状態にまで陥りかねません。つまり、上記の表でいうなれば、青春を通り越して、自分を幼年期まで戻してしまいかねません(その意味で、「自分さがし」というのは「自分で自分を育て直す」という意味なのかもしれません)。

 

微妙なのは、恋をすること

ある異性に振り向いてもらうのに必要な能力って、相手次第でいかようにも変わると思います。つまり「能力の認識」はできていない状態にはなれます。

しかし、あまりにも自分とかけ離れた人間だと、それは「世界の認識」すらできていない状態にまでなってしまうかもしれません。相手によりけりです。

一方、ただ「オトす」ための恋愛だとか、カラダの関係だとか、これらは恋愛に達者である、つまり、その達成に必要な「能力」がわかっているからこそ、手を染めることの多い代物です。だから、「大人の恋愛」なんです。

 

みなさんも、もし上記の青春の定義に一部でも納得されるところがありましたら、ではどうすれば青春を取り戻せるのか、考えてみるのはいかがでしょうか?

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

というわけで、感想記事でもオススメ記事でもない、ちょっと語りたいシリーズでした!!

愚にもつかない自分の考えを述べるだけの長い記事でしたが、ここまでお読みいただけたのなら、本当に感謝のかぎりです。そして、あわよくばこの記事で「青春ってなんや?」という問いを少しでも考えていただけたとしたら、この記事は1000%の働きをしたと言えると思います。

 

改めて、最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

 

 

(終わり)