アタシポンコツサラリーマン

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ループものが私たちに与えてくれるもの 〜「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はなぜコケたのか〜

こんにちは、いさおです。

 

突然ですがみなさん、打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?というアニメ映画を覚えていますか?

 

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もともと1990年代に制作されたドラマが原作で、2017年にアニメ映画が上映されました。

 

前年に「君の名は」が大ヒットしたこと、大々的な宣伝がなされたこともあり大きく注目されていましたが、この映画、大ゴケしました・・・

ネットとかで感想を検索すると、なかなか厳しい文がずらり・・・

 

 でも、この映画は聞くところによると「君の名は」よりも前から制作が始まっていたという、年季の入ったものなようなんです。かつ新房監督を筆頭に、制作スタッフも豪華です。これだけ聞くといかにもいい感じの作品ができそうですよね。

 

なぜ、打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?はコケたんでしょう?

 

 

1. この記事のねらい

「『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』はなぜコケたのか」という問題について、「ループもの」という切り口から考えていこう、というのがこの記事の目論見です。

 

この作品は後述のあらすじのとおり、いわゆる「ループもの」です。

 

しかし本作は、ループものとしてはあるまじき形でエンディングを迎えます。言ってしまえば、このエンディングの迎え方が、本作がコケた大きな理由の一つです。

 

ここで話を終えるとおもしろくない。ここからさらに話を進めまして、

この「ループものにあるまじきエンディング」にこそ、本作の魅力、さらには私たちがループものから享受しているものに関わる示唆が実は詰まっているのでは!?

そういう話をできたらいいな!、と考えています。

 

うまく書けるかわかりませんが、最後までおつきあいいただけたら幸いです。

 

 

では早速、まずは本作のあらすじの紹介から始めていきます。

 

 

※以下2作品につき、ここから重大なネタバレ注意

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

時をかける少女

 

 

2.あらすじ

主人公の典道は、同級生のなずなの事が気になっていた。そのなずなは母の再婚が決まり、地元で花火大会がある日に、この町を出て行くことに。なずなから突然駆け落ちに誘われた典道は、夢中でなずなと逃げ出そうとする。しかし、なずなの母に見つかり、なずなは連れ戻されてしまう。

典道はどうにもならない悔しさから、なずなが海で拾った不思議な玉を無茶苦茶に投げつける。すると、いつの間にか時間が前の日に戻っていた。

 

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典道はこの玉の力を使って何度も同じ日を繰り返し、ついになずなと二人町を出ることに成功する。しかし、何度も玉の力で時間を遡るうちに、二人はいつの間にか、現実との境界があやふやな、不思議な世界に迷い込んでいく。

しまいには花火大会で、その不思議な玉が花火に紛れて一緒に打ち上げられてしまい、すると二人の周りの世界は、いよいよ非現実的な、幻想的なものに。そこでは美しい花火とともに、「ありえたかもしれない幸せな日々」の情景が、浮かんでは消えていく。二人で何事もなく花火大会で花火を見てたり、いろんなところをデートしたり・・・ その中で、二人は初めてのキスをして・・・

 

そして場面が切り替わり、いきなり2学期の初日へ。しかし、教室にはなずなの姿はもちろん、典道の姿も、見当たらなかった・・・

 

で、エンディングの「打上花火」が流れておしまい。

 

 

3.  一般的なループものの魅力

上記のあらすじを読んでいただくと、本作を見ていない方でも、本作がだいぶアレな作品である、というのがお分かりいただけるかと思います。

 

そう、「え??ここで終わり????」てなるんですよ。

なずなは結局町を出てしまったのか?

典道は学校も行かずどこに行ったのか?

それ以前にあの不思議な世界は何なのか? 

わからないことだらけです。

 

これに対し、もちろん「丸投げ系エンディングだからダメ!」、という議論もできます。

しかしそれだけでは済まなくて、このラスト、本作が「ループもの」であるということを考えると、ますます「ありえない」終わり方なんです

 

そのことを説明するには、近年のループものの特徴を考える必要があります。

近年のループものの特徴を、タイプ別に見ていきます。

 

① 目的達成までの過程としてのループを楽しむタイプ

最近のループものはこのタイプが一番多いでしょう。

ある目的があって、その達成に必要なものがわからない。そこで、何回も時間をループすることで、徐々に目的達成のためのフラグを解明し、踏んでいく、というもの。謎解き要素、スリル要素に溢れていて、見ていてとても楽しいタイプです。

 

例)STEINS;GATEAll You Need Is Kill僕だけがいない街Re:ゼロから始める異世界生活、その他多数・・・

 

② 物語がループの中の一周回であったことが後から判明するタイプ

え!!ループものやったんか!!て終盤で判明するタイプです。

それまでの物語は実はそれ以前も何度か繰り返されていて、そこでこれまで思いもよらなかった高次元の目的が明らかになる、というものが多いです。

 

わかりやすいように例を挙げたいんですが、ループものであること自体が物語の核心であるものばかりであるため、どうしてもきついネタバレになってしまいます・・・

 

(近年のアニメ映画の中で最もヒットした例の作品は、強いて言うとこのタイプですね。)

 

 

 

①、②はループの見せ方が違いますが、トライアンドエラーを重ねて目的を達成する、という点では共通しています。

やり直しがきかず、思うようなエンディングを手に入れられないこの現実、何度も挑戦して望むものを手に入れるさまを見るのは、鬱憤が晴れるものがあって気持ちいいですよね。

 

では、私たちは「鬱憤を晴らす」ためにループものを見ているのかというと、それは少し性急な判断です。

望むものを手に入れられなかった作品も、私たちは好んで視聴します。

 

③ ループしたが、目的を達成できなかったタイプ

筆頭の一つが時をかける少女でしょう。

 

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主人公の真琴は幾多のループの無駄使いの果てに、最後のループでようやく「大切な人の大切な思いに向き合う」という目的を見出します。しかし、その時にはもう、その大切な人とのやり直しの機会は残されていなかった、という終わり方でした。

ループにより目的を達成することはできなかったのです。

 

それでも、真琴は最後の場面で、「実は私もさ、やること決まったんだ」と力強い言葉を残してくれます。もうやり直しはきかないものの、真琴は「やること(が)決まった」、つまり「目的という確かな財産を得た」、これだけは言えるでしょう。

 

 

以上より、多くのループものは、最後に特定の「終着点」を提示している、と言うことができるのではないでしょうか。

幾多のループの果てに、登場人物たちは、特定の目的を達成する、あるいは今後の目的を獲得する、という一定のゴールに到達しています。

 

そしてその終着点は、幾多のループによるトライアンドエラーの末にたどり着いたものです。ゆえに、強い説得力があります。

少し詳しく言いますと、「こんなに繰り返した結果こうなったんだから、なるべくしてなったんだろう」という安心感があるのです。この繰り返しによる絶対的安心感こそ、私たちがループものに惹かれてならない大きな要因なのではないでしょうか

読後感がとてもすっきりするんです。

 

まとめますと、一般的にループものの魅力とは、基本的に以下2つの柱から構成される、ということができます。

 

Ⅰ 特定の終着点の提示

Ⅱ 繰り返しによる当該終着点の絶対的安心感

 

ここまでくると、上述の「ループものとしてありえないエンディング」という言葉の真意をわかっていただけるかと思います。

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は、特定の終着点を提示していません。なずな、典道が最終的にどうなったのか、語られないまま物語は幕を閉じます。

よって、上記ループものの魅力の内、Ⅰが成立しません。よって、Ⅰに依拠しているⅡも当然成立しません。

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は、一般的なループものの魅力を、自ら放棄しているのです。

 

だからこそ、本作はコケたのです。当然の結果といえば当然の結果なのかもしれません。

 

 

4.「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の魅力

(1)本作が描くもの

というように、本作は、多くのループものが持っている大きな魅力を放棄しています。

 

では、そんな大切なものを放棄してまで本作が描きたかったものは、何なのか。

 

それは、「多数の可能性の提示」ではないでしょうか。

 

本作は、玉を投げるという行為だけで、多数の周回がいともたやすく複製されていきます。(All You Need Is KillRe:ゼロから始める異世界生活などは、一回死なないとループできないというのに!)

 

なずなが簡単に母に捕まる回、

町を出た後に捕まる回、

そして、クライマックスで浮かび上がった、なずなが町に残って二人が仲を深める回・・・

 

いろんな可能性を目にして、典道は希望を持ったのでしょう。これだけ可能性がたくさんあるなら、なずなが町を出るのは止められなくとも、なずなとともに歩める道が別にあるはずだと。

だからこそ、典道は新学期に学校に来ず、新しい可能性を求めて旅に出たのではないでしょうか。

 

つまり、本作はループによって、

特定の終着点への収束を描くのではなく、

特定の出発点(=なずなとの別れ)から無限の可能性への発散を描いている、

そう私は考えます。

 

(2)本作が私たちに与えてくれるもの

ループを、「収束」ではなく「発散」を表現するために使うこと、このことは私たちに何をもたらすのしょう?

 

特定の終着点への着地が私たちに安心感を与えてくれるのなら、無限の可能性への発散は、逆に私たちに不安を与えます。

いや、正確に言うと、私たちが普段から漠然と抱いている不安を、私たちに思い出させるのです。私たちは、将来自分がどうなっていくのか、いろんな可能性があるからこそ、不安を抱いています。改めてこの可能性の幅広さを映像として見せられると、否応なくその不安と向き合わざるをえません。

 

しかしこの作品は、周回の複製によりそうした「可能性の無限性」を認めた上で、「なずなと共に歩める」という素晴らしい可能性を、クライマックスで、非常に印象的で美しい映像とともに提示します。

つまり、可能性が開かれているからこそ抱ける希望を、私たちに提示するのです

 

すると、こうは考えられないでしょうか。

「いろんな可能性があって、その中には素晴らしい道もある。典道はそれを求めて一歩踏み出したが、さて、あなたはどんな道を歩むか?」

本作はそう、私たちに問いかけ、私たちの背中を押しているのではないでしょうか。

この作品には檄文のような要素がある、そう言ってもいいかもしれません。

 

納得感のある終着点は、私たちに安心を与えてくれます。しかし、そこが終着点である以上、その先への進歩はかないません。

しかし、無限の可能性を示す本作は、不安を思い出させるものの、同時に、私たちが前に進むためのきっかけを与えてくれるのです。

 

答えを与えてくれるのを待って安心感に浸るだけでは手に入らない、大事な要素がそこにはある、そう私は考えます。

 

 

 

5.終わりに

以上、一般的なループものの性質の考察から、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の魅力を考えてみました。

 

ちなみに本作の原作ドラマは、中盤の主人公の選択に応じてエンディングを2種類作り、両方を放映したそうです。つまり原作から上記の「発散性」の要素があったのでは??なんて都合のいい考えもしたりしております。

 

 

本作を「おもしろくない」、と考えるのは上記の通り自然な話だと思います。

しかし、よく見る「なずなと典道がどうなったか描かれていない、だからダメ」、この論法には、もったいなさを強く感じていました。

だから言いたかったのです、ラストを描かないからこそ、視聴者に与えられるものもあるんだぞ!、と。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました!!

 

(おわり)