アタシポンコツサラリーマン

ポンコツサラリーマンが、マンガ・アニメについてつらつらと書きます。不定期更新ですが、気が向きましたらぜひぜひお立ち寄りを。

AIが創作した「感動的な」創作物に、私たちは感動できるのか?

こんにちは、いさおです。

noteで書いた標記記事が個人的に気に入ったので、はてなブログにも転載します。

どうぞよしなに。

1 『仮面ライダーゼロワン』5話を見て

 

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2019年10月12日、史上最強とも言われる台風19号の襲来に見舞われている関東地方では、外出ができません。

 

一日中家で過ごすことしかできず、とりあえず溜まった録画を消化しようと考え視聴したのが『仮面ライダーゼロワン』5話だったんですが、いやあ、めちゃくちゃおもしろかったです。

本作では、『ヒューマギア』という、AIを搭載した人間と瓜二つのロボットが、人間のサポートとして労働しています。5話では、ヒューマギアを製造している会社の社長である主人公が、大人気マンガ家にヒューマギアをお届けする話だったのですが、マンガ家の家に行ってみると、マンガ家は、プロットを出版社に、作画を全てヒューマギアに任せきりにしており、自分は一切働いていなかったのです。その事実に、マンガ家の大ファンだった主人公は強くショックを受けます。

 

この話のオチとしては、マンガ家が「情熱を失ったマンガ家はヒューマギアに負けてしまう」と悟り、再びペンをとるようになるのですが、この話は非常に示唆的です。AIが作画しているにも関わらず、そのマンガは「マンガ家の創作物」として完璧で、依然読者を惹きつけているのです。しかし、「AIが作画している」という事実が明るみになると、がっかりしてしまう。プロットまでAIが創作しているとなったら、そのがっかりはもっと強いものになるでしょう。

私たちは、同じ創作物でも、なぜ人間が創作していたら素直に感動できるのに、AIが創作していると判明していたら、がっかりしてしまうのでしょうか?

2  そのがっかりの原因は「作為性」なのか

 

仮面ライダーゼロワン』のお話のように、AIが精巧なものになる程、おそらく私たちは、人間の創作物と、AIの創作物との区別がつかなくなります。したがって、AIの創作物にがっかりする原因は、AIの創作物の内容ではなく、「AIがそれを創作した」という事実にありそうです。

 

ではなぜ、「AIがそれを創作した」という事実にがっかりするのか。それは、AIという存在が、本質的に人間の作為の下に生まれたものであるからではないでしょうか。AIが何かをできるようになるためには、まず、必要な情報をAIに学習させる必要があります。人間が感動する作品とはどのようなものなのか、人間が惹かれる作画とはどのようなものなのか、その他感動的な作品を創作するためのエッセンスを入力されることで、AIは「感動的な作品」の創作の仕方を自ら学び、それを出力します。つまり、AIの創作物は全て、そのAIに「こういうプロット、こういう作画なら、人は感動する」ということを覚えこませた人間の産物なのです。

 

そうなると、AIの創作物に感動したあなたは、いわばそのAIに学習させた科学者の狙い通りに動いているわけです。科学者が、「こういうのお前ら好きだろ?」と組ませた創作物に、見事にはまってしまう。このことは、「感動」という、あなたの最も自由で原始的なはず衝動を、顔もわからない他人の作為にコントロールされていることを示しています。「がっかり」どころか、恐怖すら覚えかねない事実です。

 

ここで、今この記事を読んでいただいている方は、おそらく次のようなことを考えるでしょう。

 

「いや、人間の創作物も、ひどく作為的なものでは?」

 

と。これは全くもってその通りでして、世の中の作家らは、何も自分の好きなことを好きなように書いて、それがたまたま読者の琴線に触れているわけでは決してないでしょう。作家らは、どのようなプロットを組んで、それをどのような形で表現すれば、読者の心に響くか(有り体な言い方をすると「売れるか」)、めちゃくちゃ考えて創作していると思います。つまり、作為的に「感動的な創作」を生んでいるわけです。

 

しかし、私たちは人間の創作物に対して、何の違和感を持たず感動しています。以上より、「AIがそれを創作した」という事実にがっかりする原因を「作為性」に求めるのは、少し検討が足りないようです。

3 「作家」という神話

 

あなたは、創作物における「キャラ」を、単なる紙の上の仮装の存在として捉えていますか?

 

「キャラ」をそのように捉える人間は、物語を愛する人ほど、少ないように感じます。現在のオタク文化では、キャラが好きなあまり、そのキャラの誕生日にケーキを買って誕生日会を開いてしまう人もいます。

そこまで極端でなくとも、あるキャラについて、「この子は、この女の子が生きていると世界が滅んでしまうとわかっていても、女の子が好きだから、世界の滅亡を選んだんだね・・・」というような形で、あたかもそのキャラがこの世界に実現する人間であるかのように話す人は、非常に多いと思います。その子は、ある作家が創作した物語の中の存在でしかない以上、「この子は、この女の子が生きていると世界が滅んでしまうとわかっていても、女の子が好きという設定だから、世界の滅亡を選ぶ物語になったんだね・・・」という方が、正確な表現であるというのに。

 

何が言いたいのかと言いますと、私たちはキャラたちを、私たち同様「自分で考えて生きている存在」として捉えます。私たちはよく創作物の世界を「2次元」と言いますが、私たちのキャラとの向き合い方は、「3次元」にいる現実の人間との向き合い方と同じなんです。キャラは、作家が生み出し、作家が考えたとおりに動く存在でしかないというのに。

 

ここに私は、「作家」という神話を見ます。すなわち、キャラは「現実に存在している作家という存在(3次元)が創作したもの(2次元)」であるというのに、扱いが3次元に昇格している。これに引っ張られて、作家が4次元に昇格しているんです。わかりやすく言うと、作家は「神」(「創造主」)という扱いになって、私たちの見えない遥か高いところに隠れた状態になっている。だから、私たちは、私たち自身の行動や考え方に誰かの作為を感じないように、キャラの行動や考え方に、誰の作為も感じず、感動できるのです。

しかし、AIは「神」ではなく、人間が製作した機械、すなわち私たちの世界に目に見える形で存在する3次元の存在です。だから、AIの創作物は「2次元」という一つ次元の下がった存在として扱われる。私たちは、私たちより次元の低い存在には感動できないのです。

 

物語を創作する人間は「神」であるがゆえに、私たちは有史以来「物語」というものに感動してきました。しかし、「物語」を創作できる人間ではない存在、すなわちAIが現れたことで、私たちは有史以来初めて、「本質的に感動できない物語」に出会ってしまったのかもしれません。

4 AIの創作物に、私たちは感動できるのか?

 

では、私たちはこの先ずっと、AIの創作物には感動できないのでしょうか?

 

この先AIは、ますます私たちの社会にとって欠かせない存在になっていくでしょう。複雑な作業を人間の代わりにやってくれたり、仕事でより良い事業提案をしてくれたり、プライベートで明日着る服を提案してくれたり・・・ AIのできることはますます広がり、AIはますます、機械というよりも人間に近い存在になっていくのでしょう。

その末に、AIが人間と同じ存在となったら、人間の作家と同じく、創作AIは「神」の地位に到達できるかもしれません。そうなれば、もはやAIの創作物の「作為性」は目に見えなくなるのでしょう。

 

AIが「機械仕掛けの神」になった時、私たちはAIの創作物に心を奪われるのです。

 

 

(おわり)

 

P.S.  ちなみに、この先AIがさらに発達したら、人間との関係性はどうなっていくのだろう?というお話が好きな方、山田胡瓜先生の『AIの遺電子』、『バイナリ畑でつかまえて』を読むと幸せになれるかもしれません。オススメです。

 

AIの遺電子 1 (少年チャンピオン・コミックス)
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バイナリ畑でつかまえて (新編)
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