【マンガ】『アクタージュ act-age』1〜4巻感想 〜本作の少年マンガぶりと夜凪景の抱える矛盾〜
こんにちは、いさおです。
最近、週刊少年ジャンプの連載マンガがほぼアニメ化済みorアニメ化決定済み、というのをtwitterで知りまして、びっくりしました。
昨今、深夜アニメの数の急増により、アニメ化のハードル自体がひと昔前より下がっています。
それでも、ほぼアニメ化している、というのは快挙でしょう。最近では、2017年度のマンガ関連タイトルに名を連ねた『鬼滅の刃』、『約束のネバーランド』のアニメ化が話題です。
その次の世代として今注目を集めている作品としては、『アクタージュact-age』、『呪術廻戦』、まずこの2作品が挙げられるでしょう。ともに、従来のジャンプマンガとは一線を画す雰囲気の作品であり、週刊少年ジャンプの新時代を予感させるものになっています。
今回は、このうち『アクタージュact-age』既刊4巻の感想記事です!
1 『アクタージュact-age』ってどんな作品?
特異な才能を持つ女優のタマゴ、夜凪景の成長を描く作品です。
両親がおらず、弟妹と3人で経済的に厳しい生活を送る中で、半ば現実逃避のように彼女が魅入られたのは、映画。映画で描かれる様々な場面や人間に感情移入することで、彼女は無自覚のうちに、高精度な「メソッド演技法」〜つまり、演じる役の感情・体験を自分自身のものとして捉えることで、リアリティー溢れる演技を実現する技術〜 を習得していました。
この才能を無名の天才映画監督、黒山に見出され、夜凪は女優としての道を歩み始めます。
「演劇」を題材にした少年マンガ、というと、なかなかピンとこない方も多いところだと思います。自分もそうです。
少年マンガといえば、バトル、スポーツといったアツい世界が真っ先に連想されるところです。また、特に週刊少年ジャンプといえば、「友情」、「努力」、「勝利」。演劇でこの3つのテーマを実践するのって、なかなか工夫が要りそうです。
しかしこのマンガ、何の小手先も弄せず、ただ真っ直ぐに夜凪の女優としての成長を描くことで、「友情」、「努力」、「勝利」をしっかりおさえているのです。
「演劇」という、おしとやかで華麗なイメージを持つ要素と、「少年マンガ」という暑苦しい要素。この正反対とも言える要素を、いかにして両立させているのか。
そんな話も織り交ぜつつ、既刊4冊の感想をつらつらと書いていきます。
2 『デスアイランド』編 〜ライバルとの切磋琢磨〜
2巻から3巻中盤にかけては、天才女優百城千世子とのいきなりの共演が叶った、作中映画『デスアイランド』の撮影が描かれます。
このエピソードで、まず私はThis is 少年マンガ・・・と強く認識させられました。
というのは、千世子と夜凪のライバル関係、そして友情関係が見事に成立したからです。
夜凪は、演じる役を自分に写し込むことで、他でもなく自分自身の行動・感情として、台本を再現していきます。自分本位の演技なのです。
一方千世子は、観客にとって最上の映画を実現すべく、観客が望む形で台本を再現していきます。他人本位の演技なのです。
当初夜凪は、千世子の演じ方がある意味表層的なものに思え、千世子を好きになれませんでした。だから、『デスアイランド』内では千世子が演じる役と仲のいい登場人物を演じることになったものの、「千世子と仲がいい」という感情を自らに写し込むことができず、台本をうまく演じることができません。
しかし、物語の終盤、千世子の演技の奥底にある「最上のエンターテイメントへの情熱」を知った夜凪は、千世子をついに認めることとなります。
そして、以下のように全ての歯車がかみ合ったような、素晴らしいクライマックスにつながっていくのです。
夜凪が千世子を認める
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夜凪が、台本を自分本位の演技法で再現できるようになる
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千世子はそんな夜凪を見て、二人が演じる役の作中の関係性と同じように、夜凪が千世子を認めたことを認識する
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千世子は、夜凪も認めてくれた、自らの他人本位の演技法を貫き通すことを改めて決意する
↓
撮影が成功する
他人のためにセリフを読んでいた千世子が、自分の奥底を理解してくれた夜凪に対して、思わず初めて自分の言葉としてセリフを言ってしまったシーン、本当に素晴らしかったです。
この過程を通し、正反対の演技法を持つ二人はお互いを認め合い、刺激し合う関係を築くこととなったのです。
週刊少年ジャンプの3大要素の一つ、「友情」の代表的な形の一つは、「ライバル関係」であると私は考えます。悟空にはベジータが、ナルトにはサスケが、桜木には流川がいます。
このライバル関係を、勝負ものではなく、「映画の撮影」を舞台にしながら見事に成立させたこの『デスアイランド』編で、本作は紛れもなく「少年マンガ」であると、多くの読者が痛感したのではないでしょうか。
演技というテーマをまっすぐに描きつつ、少年マンガを実践しているのです。
3『銀河鉄道の夜』編 〜女優としての成長と人間としての成長〜
3巻中盤からは、舞台演劇『銀河鉄道の夜』の主人公、カムパネルラとしての出演に向けての物語が始まります。
そこで夜凪が出会うのは、同じ自分本位の演技法を、自分よりも遥かに極めている異才の若手俳優、明神 阿良也と、その演技法を是とする舞台演出家、巌 裕次郎です。
ここで描かれる夜凪の成長の一つが、演技の幅の拡大です。
夜凪の演技の根源となるのは、他人の体験を自らに写し込むための、他人の体験に対する理解力です。創作物たる映画への没入という、半ば現実逃避によってこの演技法を身に付けた夜凪は、「生身の他人の理解」を意識したことがありませんでした。
そこで夜凪は、千世子はじめ現実の様々な人間と交流することで、他人の体験・感情を吸収し、演技の幅を広げていきます。
この図式も、とても巧みです。夜凪の自分本位の演技法の性質上、「女優としての努力」と、他人の理解を通しての「人間としての成長」がリンクしているのです。女優業のために様々な人間と交流し、理解する努力によって、彼女の人間としての幅が、広くなっていきます。
ここまで読むと、「演劇をテーマに少年マンガなんて書けるのか?」という懸念は、もはや跡形もなく消え去るのです。
4 夜凪の今後 〜夜凪の演技法が内包する矛盾〜
しかしこのシステム、夜凪にとってはメリットばかりの話ではありません。
夜凪演じる『銀河鉄道の夜』の主人公、カムパネルラは、設定上「死」の最中にあります。夜凪が自身のやり方でカムパネルラを演じるなら、夜凪は「死」に触れ、それを理解しなければなりません。
そんな中で、巌から夜凪に告げられたのは、巌が余命数カ月であることと、衝撃の一言。
この先、夜凪は「死」を理解し、舞台『銀河鉄道の夜』は大成功を収めるのかもしれません。
しかし、それで夜凪は素直に喜ぶことができるのでしょうか? それは夜凪が巌の死を利用したから、夜凪がそう考えてしまうとすれば?
夜凪の演技法は自分本位のものですが、しかしながら他者に触れないと進化しないものです。
自分の殻に閉じこもることで類稀な才能を得た夜凪は、今後その才能が指し示す道を進むことで、多くの他者の思いを背負うことになるのでしょう。
その矛盾の先には、何が待っているのでしょうか。本作冒頭でスターズ社長が夜凪について述べていた懸念の一つの側面が、この問題なのではないか考えます。
その矛盾を超えた先で、夜凪は大女優としての一歩を踏み出してくれる、私はそう信じています。
もちろん最新のジャンプでは上記とは全然違う方向に話が進んでいるかもしれません。あくまで個人的な感想です。
いずれにしましても、『アクタージュ』のこれからに、そして夜凪のこれからに、より一層の幸があらんことを!
毎度のごとく、言いたいこと言うだけ言う記事でした!
(おわり)