アタシポンコツサラリーマン

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【マンガ】『鬼滅の刃』が剥がす、鬼退治の価値観のベール

(またまたnoteで書いた記事が思いの外気に入ったのでこちらにも転載シリーズです。)

 

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鬼滅の刃』18巻を読みました。本当に面白かったです。

 

アニメ化を通して押しも押されぬ日本を代表するマンガとなった本作、その評判に違わぬ素晴らしいストーリーです。本作は人を喰らう鬼を狩る「鬼退治」物語の一つですが、その中でも集英社は、本作を「日本一慈しい(やさしい)鬼退治」としてPRしています。

これは、本作における鬼の位置付けによるものです。確かに本作に登場する鬼の多くは、ただ自らの欲のために人を喰らう畜生ですが、彼らは元々は人間なのです。そして、主要な敵として炭治郎たちの前に立ちはだかる鬼の中には、鬼と化す過程に同情を禁じ得ないような、過酷で悲しい過去を持った鬼が少なくありません。18巻で描かれたのは、そんな鬼の代表例でした。そして、そんな鬼たちに対して、炭治郎は容赦なく立ち向かいつつも、憐憫の心を抱いてしまうのです。そんな一幕は、確かに「慈しさ」を思わせます。

しかし、見方を変えると、この鬼の描き方は「鬼退治」物語の根幹を揺るがすものだと私は感じます。それは、「鬼を退治することは正義」という、「鬼退治」物語を物語の王道たらしめる価値観を剥いでしまうものだからです。

これはどういうことか。

1.「鬼退治」物語の原型

 

日本で生まれた私たちにとって、「鬼退治」物語の原型とは何でしょうか。私は「桃太郎」ではないかと考えています。桃太郎は成長するやいなや鬼の退治を宣言し、犬、猿、雉を味方につけ、鬼ヶ島を攻略します。そして、多額の金品を持ち帰るのです。

この昔ばなしにおいて、「なぜ鬼を退治しなければならないのか」という鬼退治の理由については、多くは語られません。ものによっては「鬼は人々を襲い金品を奪っている」といった簡単な背景説明がなされるものはありますが、それがなくても、私たちはこの「桃太郎」という物語を受け入れるのです。

 

これは、私たちの遺伝子に、「鬼=悪」という価値観が植え付けられているからだと思います。特に背景説明はなくとも、物語において「鬼」という言葉が用いられたら、私たちはそれを「悪」と認識するようにできている。ゆえに、私たちは自動的に「鬼退治」は正義であると認識するようにできている。私はそう考えます。

2.「鬼退治」物語の複雑化

 

しかし、にっぽん昔ばなしならそれでいいですが、現代の大衆向け作品では、物語の長編化、複雑化が求められます。わかりやすく言うと、読み切り作品だけではなく、一冊の本にできるような、さらには長期連載できるような作品が商業的に求められます。

そうすると、「鬼は悪」という単純な価値観だけでは、物語のギミックとして不十分です。だから、「鬼は悪」という価値観に、都度理由づけがなされるようになります。実際に人を襲う場面が丹念に描かれたり、鬼に個性が生まれたり、鬼の目的が複雑化(世界征服など)したり・・・

 

その傾向を極限まで進めると、やがて、鬼の主張は合理性を帯びるようになっていきます。すなわち、「鬼は悪」という考えへの理由づけとして、鬼が人に危害を加えるさまやその背景を丹念に描きすぎると、人に危害を加えるという鬼の行動が、一筋縄では否定できない「理由」を獲得し始めるのです。例えば、「人は自然を破壊する愚かな生物だから滅ぼすのだ」とか、「かつて鬼の領土だった土地を人間が無理やり奪ってきたから、それを取り戻すために戦っているのだ」とか・・・。

そうなると、「鬼退治」の正義性は揺らぎを見せ始めます。この場合、物語は解決策として、人と鬼との対話を描く方向にシフトします。人、鬼双方の主張に合理性があり、どちらかを悪を断じることはできない。だから、対話を通して融和を図り、種族の共存を達成するのです。

3.「鬼退治」の詰みとその脱却 〜ベールを剥がすということ〜

 

しかし、その対話すら許されないケースがあります。それは、「一筋縄では否定できない背景を持った鬼個人が、人を殺しまくっている場合」です。上記の人・鬼種族間対立の場合は、団体と団体の対立です。そして、団体であるがゆえに、人側・鬼側それぞれの中に、融和派から対立派まで立場にグラデーションがある。だからこそ、それぞれの団体の融和派が手を結ぶことで、対話の道が開ける。しかし、相手が鬼個人だと厄介です。その鬼は立場のグラデーションどころか、人間に対して敵意100%なんです。だから、対話の余地はない。しかし、人間を憎むことにはある合理的な理由があって、この理由を正義をもって断罪することは難しい。

ここで人間は、「正義」という看板を持っている限り、ただこの鬼に殺されるがままなす術が無い「詰み」の状態になります。

 

この臨界点に達したのが、『鬼滅の刃』という作品である。私はそう考えています。

 

では、『鬼滅の刃』はこの「詰み」をどのように脱却したのか。正義をもってしてこの鬼を断罪できない、そんな中でも、この鬼を断罪できる理由はあるのか。

 

一つだけあります。

 

それは、「自分(たち)を殺してくるから」という理由です。

 

この鬼は、放っておくと自分を、そして自分の大切な人(妹など)を殺す。だから、鬼を殺してもいい。

鬼滅の刃』は、この論理で、悲しい過去を持った、人を殺すことに一種の合理性を持った鬼たちを、容赦無く狩るのです。そこに、「正義」といった理性的な概念はありません。「殺さなければ殺される」、そんな動物のような野生の論理で、彼らは戦っているのです。

 

そして、だからこそ、この『鬼滅の刃』という作品は、私たちの心の奥底を揺さぶるのです。上記の野生とは、ドラマから「鬼は悪」という価値観のベールを、正義といった理性を、あるいは理屈を剥いで、削って、捨て去ることで、最後に残る「ドラマの核」なのだと私は思います。

言い方を変えるならば、この野生的な「鬼退治」は、私たちがかつて野生動物だったことから引き継いでいる何かを、呼び起こしてくれるのです。

 

鬼滅の刃』は、まさに最先端にして野生的な「鬼退治」と言えるでしょう。

 

ますます戦いが激化する『鬼滅の刃』、今後も見逃せません。

 

(おわり)

参考:

www.youtube.com