アタシポンコツサラリーマン

ポンコツサラリーマンが、マンガ・アニメについてつらつらと書きます。不定期更新ですが、気が向きましたらぜひぜひお立ち寄りを。

現代のマンガにおける「魔女」というモチーフの意味

魔女。

 

その言葉に、あなたはどのようなイメージを持ちますか?

 

「魔法を使う女」がその文字通りの意味だと思いますが、この言葉は、それ以上の様々なニュアンスを帯びていると思います。例えば、当然魔法が使えない私たちにとって、魔法が使える人間は、遠く離れた憧れの存在。ミステリアスで、高嶺の花のようなイメージを持ちます。一方で、例えば男をたぶらかす女を「あいつは魔女だ!」というように、一筋縄ではいかない女性、というニュアンスを持つこともあります。

 

そして何より、「迫害の対象」の象徴として使用されることが多いでしょう。中世末期から近世初期のヨーロッパにおいて、「悪魔と契約した」と言われる女性が、異端なる存在として公的・私的に裁かれる「魔女狩り」が多発したことは、広く知られています。今でも「魔女狩り」(“Witch-hunt”)は、理不尽な迫害を意味する言葉として定着しています。

 

こうした様々なニュアンスを帯びる「魔女」なる存在を中心に取り上げたマンガ作品が、最近立て続けに世に出ました。まずは、圧倒的な世界観をもって描かれる超話題作の復讐譚、『はめつのおうこく』。そして、現在ヤンマガサードで連載中、蹂躙に抗う魔女たちを描く『エデンの魔女たち』。さらに、ジャンプで新連載、魔女との逃避行を描く『魔女の守人』。それぞれ人気を博しています。

 

なぜ今、このような「魔女」をモチーフにした作品が、連続して世に出ているのか。なぜ、「魔女」なのか。物語というものは、今私たちが求めている世界を、心のありようを映すものです(商業的にも、そうあるべきです)。であるならば、これら「魔女」をモチーフにした作品群は、同時代に世に出ている全く違った内容の作品とも、背景を同じくするところがあるはずです。

 

そこで本記事では、同時期に世に出ている他の作品の流れも視野に入れつつ、昨今のマンガにおけるこの「魔女」というモチーフの謎について、考えてみたいと思います。

 

1.あらすじ紹介

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左から『エデンの魔女たち』、『はめつのおうこく』、『魔女の守人』

 

まずは上で挙げた魔女を中心に据えた3作品について、もう少し詳しくあらすじを見てみましょう。

 

①『はめつのおうこく』

comic.mag-garden.co.jp

 

かつては魔女がその強大な力で人類を支えていたが、科学の発展により、魔女が不要とされ、迫害されるようになった世界。主人公のアドニスは人間であるが、魔女クロエの弟子になり、本来人間には使えない魔法を扱えるようになっていた。アドニスとクロエは迫害から逃れる旅を続け、固い絆で結ばれていたが、ついにクロエは捕らえられ、アドニスの前で殺されてしまう。アドニスは、最愛の女性を奪った世界に復讐を果たすべく、魔法を手に一人立ち上がる。

 

② 『エデンの魔女たち』

yanmaga.jp

 

暴力や争いのない国、エデン。そこでは、それぞれの町に魔女がおり、魔女はその力で国を霧の壁で囲い、外界に生息する化物から人々を守っていた。そしてそんな魔女を人々は敬愛し、魔女と人々は平和に協力して暮らしていた。そんな中、突然隣国の軍隊がエデンに侵攻を始める。戦いを経験せず、銃という道具の存在すら知らないエデンの人々は、その軍事力にただただ蹂躙されるばかり。愛する人々を失った魔女たちは、一つの町に集まり、終わりの見えない防衛戦に身を投じることになる。

 

③『魔女の守人』

www.shonenjump.com

 

異形の存在、〝魔〟(イビル)に人類が脅かされる世界。人々は町を築き、そこに人智を超えた力を持つ魔女を一人ずつ、魔女の護衛である「守人」とともに配置し、町の防衛にあたらせていた。しかし、この魔女は一定以上魔法を使うと自らもイビルになってしまう存在であり、その時には守人が魔女を殺すことが、絶対的なルールとされていたのである。守人である主人公のファフナは、広い世界も、普通の女の子としての生活も知らないままイビルへの変質を待つばかりである魔女、マナスファを手にかけることができず、マナスファの延命の方法を探して、世界の理に抗い魔女を連れて町を出る決心をする。

 

2.「過酷な世界で戦う」作品の存在

以上3作品のあらすじを見比べて、どう思いましたか?「魔女」の存在が共通点になっているのは言うまでもないのですが、その他に、この3作品に共通するポイントってなんでしょうか?

 

そう、それは、「設定の過酷さ」です。アドニスは最愛の女性を奪われて、自分以外の全人類を敵にまわす戦いに身を投じますし、エデンの魔女たちも理不尽で、圧倒的に不利な戦いを突然強要されてしまう。『魔女の守人』についても、「イビルになった魔女は守人が殺す」という世界の理に反したファフナとマナスファを、世界は許さないでしょう。こうした、突然全世界を敵に回して、あまりに過酷な戦いに身を投じていくストーリーが、これら3作品の共通点になっていると思います。

 

しかし、この「過酷な世界で戦う」という設定は、最近になって表れたものではありません。直近10年ばかりを振り返るだけでも、進撃の巨人(2009)、魔法少女まどか☆マギカ(2011)に始まり、「主人公補正」という言葉がかすむくらい容赦なく主人公やヒロインが苦しみ、メインキャラといって差し支えない重要なキャラがバタバタと死んでいく特徴を持つ作品が、マンガ、アニメ界において一大エリアを築いています。個人的には極黒のブリュンヒルデ(2012)、がっこうぐらし(2012)、『終末何してますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?』(2014)、甲鉄城のカバネリ(2016)あたりが大好きです。

 

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進撃の巨人』と『魔法少女まどか☆マギカ』。ともに時代を代表する傑作。

 

そう考えると、上記3作品で取り上げられた「魔女」というモチーフの本質が「過酷な戦い」にあるというのは、早計でしょう。もし「過酷な戦い」を導入するための舞台装置が「魔女」であるのならば、上記で挙げた作品群の中で「魔女」の作品が多数出現していてもおかしくないからです(魔法少女まどか☆マギカは魔法の話ですが、主人公たちが魔女として迫害されるのではなく、逆に魔女を狩る物語なので、冒頭で挙げた3作品とは別です)。

もう少し深掘りして考える必要がありそうです。

 

3.「個性の重視」の広がり

そんな「過酷な世界で戦う」作品群を横目に、ここ数年ある哲学がマンガ界で勃興しているのを個人的に感じています。それは、「個性の重視」です。

 

他者と分かり合えたらそれが素晴らしいことであるが、だからといって、自分と他者は同じ生き物である、という前提に立ってはならない。自分と他者はどうしようもなく違う性格、考え方を備え、違う経験を重ねてきた全く異質の存在なのであり、そうした他者の性質を、自分の都合のいいように解釈したり、捻じ曲げたりするのではならない。他者のありのまま受け入れた上で、相互理解を模索しなければならない。そんな、各自の個性の重視と言える考え方を、近年の作品に感じます。「このマンガがすごい!2020」で10位にランクインした『違国日記』(2017)は、この考え方がこれでもかと詰まった傑作です。肉食動物と草食動物の相互理解の難しさを描くBEASTARS(2016)も、この哲学を緻密に物語に織り込んでいます。

 

www.shodensha.co.jp

 

また、近年間違いなくその解像度を上げている、セクシャルマイノリティ、あるいはハンディキャップを背負った人々などを描く作品も、この時流の一環だと思います。というのも、「自分と他者はどうしようもなく違う」という考え方が、当たり前のこととして受け入れられてきたからこそ、例えばセクシャルマイノリティの方々を「自分たちとは違う人々」と一くくりにして別に扱うのではなく、少しずつ「普通の他者」としてとらえることができるようになってきたのではないでしょうか。

セクシャルマイノリティだから、ハンディキャップを背負っているから、自分と違うのではない。そもそもどんな他者も、自分とは違う生き物なんです。それが当たり前なんです。だから、彼ら彼女らを特別扱いするのではなく、彼ら彼女らを「普通の他者」として捕らえ、そのありのままの性質に冷静に目を向ける態勢が、徐々にですが整ってきているんだと思います

例えば、自閉症の女性との同居を描く『アスペル・カノジョ』(2018)では、彼女は確かに「一般的」ではないかもしれないけれど、確かにその「一般的」な人間と地続きの存在であることが、丁寧に描かれています。また、『ここは今から倫理です。』(2016)、『青のフラッグ』(2017)も、この文脈で読んでほしい名作です。

 

comic-days.com

 

4.個性の重視による「過酷な世界」の変質、そして魔女狩り

こうした「個性の重視」が何より危惧しているのは何か。それは、「多数派による暴力」です。

 少数派が多数派に弾圧されること、それは、人類の歴史の中で幾度となく繰り返されてきた悲劇です。ではなぜそのようなことが起こるのかというと、それは「多数派」、「少数派」という形で人々をカテゴライズしてしまうからです。人々を2派に分けるから、強いほうと弱いほうが生まれて、前者が後者を迫害するのです。

 

「個性の重視」は、このカテゴライズを否定します。人はそれぞれ互いに異なる唯一無二の存在であり、共通する存在ではない。だから、複数の人間に共通項を見出し、彼ら彼女らをひとまとめにして扱う考え方は、適当ではないのです。「個性の重視」は、個人をその所属、カテゴリー基準(つまり外的要素)でとらえることを否定し、その個人を、その個人自身の性質(つまり内的要素)でとらえることを求めます。

 

このポイントで、近年その裾野を広げつつある「個性の重視」は、既にその地位を確立している「過酷な世界で戦う」作品群と、合流を果たします。どういうことかといいますと、後者の「過酷」性の表現として、「多数派の暴力」が使用されるようになるのです。

 

進撃の巨人』(2009)の過酷性は、巨人との戦いで表現されていました。『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)は、魔女との戦い、そしてキュウべえの陰謀という形で表現されていました。ともに、人ではない理不尽な異形を物語に導入することで、過酷性が表現されています。

 

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魔法少女まどか☆マギカ』の舞台装置

 

一方、「個性の重視」には前述のとおり、「多数派による暴力」の否定という重要な側面があります。少数派にとって、多数派との戦いはあまりに「過酷」であるからです。

このような考えを持つ「個性の重視」が読者に広まったことで、「過酷な世界で戦う」作品群は、新たな過酷性の表現の手段を獲得します。

そう、「少数派であること」を、過酷性の表現手段として使うようになってきたのです。わざわざ巨人のような異形をださなくても、少数派を主人公に据え、多数派の人間と戦わせることで、十分「過酷な世界での戦い」は表現できることに、「過酷な世界で戦う」作品群が気づき始めたのです。いや、そのほうが、人間同士の人間を描いている点でリアルな物語になり、かつ、「個性の重視」というメッセージ性を付加価値として獲得できる分、より私たち読者の心に、訴えかけることができるようになるのです!

 

そして、その「少数派という過酷性」を効果的に、わかりやすく表現できる舞台装置は何か。皆さんもうおわかりでしょう。

そう、「魔女」なのです。

「魔女」という存在は、それだけで「迫害の対象」というニュアンスを備えている。事実、上記の3作品では、魔女は人間と良好な関係を築き、人間を援けてきたにもかかわらず、人間(多数派)の勝手な理論によって、その命を狙われることになるのです。そしてそんな魔女たちを見て、私たちは「過酷な世界で戦う」作品群を読むときと同じような緊張感、ワクワクを覚えるとともに、なぜ彼ら彼女らが迫害されなければならないのか、なぜ彼ら彼女らの善良なる本質(個性)に目を向けないのか、心をかきむしられるのです。

 

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『はめつのおうこく』第1話より

 この3作品にみられる「魔女」というモチーフは、既に一世風靡した「過酷な世界で戦う」作品群と、近年広がりを見せている「個性の重視」とが合流を果す結節点である、そう私は考えます。

 

5.おわりに

以上、ほぼ同時期に登場している「魔女」をモチーフにした3作品に注目して、できるだけ視野を広げつつ、このモチーフの本質にせまっていきました。『はめつのおうこく』はその緻密な世界設定、『エデンの魔女たち』はその理不尽さと過酷さ、『魔女の守人』少年マンガらしいバトル要素と、これら3作品は似ているようでそれぞれ全く違った魅力を備えています。ぜひ、ご興味のある作品からお手に取ってみてください。個人的には『はめつのおうこく』がイチオシでして、「個性の重視」が持つ、あるネガティブな副作用にまで手を付けようとしている問題作です。

 

また、そろそろ完結が近い進撃の巨人は、人外を扱う「過酷な世界で戦う」作品群の代表でありつつ、作品終盤で「少数派という過酷性」をも導入してしまった怪物作と化しています。このあたりの話もいつか記事にまとめ…たい!がんばります。

 

以上、お読みいただきありがとうございました!

 

(おわり)

 

 

はめつのおうこく 1巻 (ブレイドコミックス)
 

 

 

エデンの魔女たち(1) (ヤングマガジンコミックス)

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