ヒプマイと近世史と表現的コンテンツ
こんにちは。いさおです。
今回は特定のマンガ・アニメの感想ではありません。
ラノベみたいなタイトルとよくわからんサムネからお分かりの通り、ただの与太記事になります。
最近twitter等により、読者や視聴者の声って本当に目立つようになってます。twitterに投稿した漫画がRT数の多さで書籍化につながる世の中です。
それ自体は非常に良いことだと思うんですが、一般消費者の声が大きくなりすぎると、それはそれで、失われるものがあるのではないでしょうか。
そういう話を、させてください。
こころお優しい方、どうぞおつきあいを!
1 ヒプノシスマイクを襲った「解釈違い」
皆さんは、「ヒプノシスマイク」というコンテンツをご存知でしょうか。
端的に言うとイケメンたちがラップで都市対抗戦をするというコンテンツです。
数枚のCDをリリースしただけで、まさかの大ヒット。グッズにコラボカフェに、その勢いは止まりません。
そんな中、2018年12月17日(月)、ヒプマイクラスタに衝撃が走りました。
この日発売のマガジンエッジに掲載されたのは、ヒプマイ初のコミカライズ。
CD発売以来とも言える、ファン待望の公式ストーリー供給でしたが、公開されると状況は一変、多くのファンが、「これは『解釈違い』である」と声をあげます。
いろいろ調べてみると、どうやらこういうことのようです。↓
① キャラクターの設定に関するヒプマイの公式設定は、せいぜい各キャラの基本プロフィールとドラマCDしかなかった
↓
② そのかすかな供給を頼りに、2次創作も相まって、ファンたちが各主要キャラのキャラクター詳細を自ら補足、各キャラに対する一定の理解が共有される
↓
③ 待望のコミカライズが、ファンたちのキャラ理解のベースになっているドラマCDの内容を逸脱、ファン困惑
この「逸脱」を、ファンたちは「解釈違い」と呼んだわけです。
この日、「解釈違い」というワードがtwitterのトレンドダントツ1位に。ファンたちの衝撃の大きさがうかがい知れます。
この現象、部外者である私から見ると、非常に興味深いものでした。
これまでも、公式設定がいつまにか変わっている、キャラがファンにとって思いもよらぬ行動をとってしまう、ということは、様々なコンテンツで見られた現象です。
しかし、多くのファンが揃ってこのように極めて強い拒否反応を示す、というのは、あまり類を見ないものなのではないでしょうか。
私はこの新しい現象に、オタクコンテンツにおける、「作者=神」という古き良き図式の終焉、作者と消費者の力関係の逆転現象を認めるのです。
そう、革命です。近世ヨーロッパみたいな。
なので、近世ヨーロッパ史っぽくオタクコンテンツの話を進めていきます(?)
2 「王権神授説」的時代
かつて、作者は神でした。
もちろん実際は作者は神ではなく、生身の人間です。
しかし、ことコンテンツという世界において、作者より上位になる存在はありませんでした。というのも、世界観、舞台、イベント、そして何よりキャラクター、その全ては作者の手によって創造され、かつ、その創造活動に強い影響を与える外部的存在がいなかったからです。
特に、そのコンテンツを享受する消費者たちは、作者から供給されるものを、そのまま受け取ることしかできませんでした。もちろん、このキャラはこう動くべきだ、といった考えを持つこともあるでしょう。しかし、その声は作者になかなか届かないのです。届くとしても、ファンレターくらい。そして、たとえ読んでもらっても、それを受けて、作者がコンテンツの内容を転換するということは、あまりなかったのではないでしょうか。
こうした作者と消費者の物理的な距離から、ただの人間であるはずの作者は、いわば不可侵の「神」のような存在として受けとめられることとなります。
作者はもはや人間ではありません。神的な力を得た、別格の存在なのです。
3 啓蒙と市民階級の台頭
しかし、そんな時代も終わりを迎えます。神の名の下に王が独占していた主権は、平民の手に渡っていくのです。
すなわち、消費者によるキャラ解釈が、力を持ちはじめます。
まずは、オタク人口の増加。アニメ、マンガと言ったコンテンツを消費する人口が着実に増えていき、個々の解釈の共有の機会が増加します。
そして何より強力だったのは、SNSです。
一消費者の解釈など、作者の解釈の前にはあまりに無力です。しかし、そんなか弱き消費者たちは、SNSを通して、有識者・知識人による啓蒙を盛んに受けることとなります(訳:神絵師の描くマンガや、キャラを語ったバズツイートをたくさん見ます)。その啓蒙を通して、必ずしも原作にはない、しかし多くのファンが愛するキャラ解釈が、共有概念として確立されていくのです。
ここまでくると、消費者という存在は一つの大きな勢力となり、作者の絶対的地位を脅かしうるものになります。
しかしながら、まだ消費者には、王への敬愛の情が残されています。確かに、自分たちが愛するキャラ解釈に基づき物語が紡がれるとすれば、それほど嬉しいことはない。それでも、作品を司るのは、あくまで作者なのです。消費者は自分たちの中で独自にキャラ解釈を構築していきますが、作者の提示する解釈を「正統」として扱う姿勢は、崩しません。
4 革命、そして民主主義へ
そんな中、かろうじて敬愛の情の対象となっていた王が、国民の信頼を打ち砕くような政治に手を染めたら、どうなるのでしょうか?
例えば、せっかく消費者間で作者提示の解釈が受け入れられていたのに、それを作者が自ら改変するようなことがあったら?
作者の地位を辛くも保っていた「王への敬愛の情」は跡形もなく消え去り、作者の提示する解釈を「正統」として扱う姿勢は崩壊します。正統であるはずの解釈は見向きもされず、消費者の中で、新たな「正統なるキャラ解釈」の構築が始まるのです。
SNSで様々なキャラ解釈が語られ、多くの人に受け入れられる解釈は、「主流の解釈」としてその地位を確立していきます。しかし一つの解釈には統一されることはなく、様々な意見が批判されたり、受け入れられたり、カオスな状態が続きます。
それはまるで、人類が革命の名のもと手に入れた合理的システム、民主主義のようではありませんか。
5 オタクコンテンツにおいて民主主義は正義なのか?
(1)「商用的コンテンツ」と「表現的コンテンツ」
オタクコンテンツにおける民主主義の獲得まで、ガバガバすぎる議論で語ってきました。
民主主義とは、現代の世界を席巻している合理的な政治システムの一つです。そんな民主主義をオタクコンテンツが獲得する時代になった、というのは好ましい話に聞こえます。
確かに、「コンテンツは消費者を喜ばせるものである」と理解するならば、消費者の本当に求めるものをコンテンツに反映させる民主主義は、コンテンツの発展に資するものでしょう。
実際、ヒプマイはそうあるべきでした。消費者の中ですでに「あるべきキャラ像」が固まっており、その像を消費者が愛しているのならば、ヒプマイのコミカライズは、その像を再現すべきだったのです。
しかし、この世にコンテンツは2種類あります。
他人を喜ばせるためのコンテンツと、作者自身が喜ぶためのコンテンツです。
他人を喜ばせるためのコンテンツとは文字どおり、消費者たちが喜ぶ、楽しむことを第一義とするコンテンツです。
分かりやすいのはアイドルものコンテンツでしょう(ラブライブ、アイマス、うたプリ、etc...)。消費者たちが求める理想のアイドルを二次元キャラとして昇華させることが、これらのコンテンツの出発点です。魅力的なアイドルを提示することで、消費者たちは楽しみを得て、コンテンツは商業的に発展していきます。これを「商用的コンテンツ」と呼びましょう。ヒプマイはこのタイプです。
作者自身が喜ぶためのコンテンツとは、すなわち作者の自己表現のためのコンテンツです。他人が求めるから創作するのではない。作者自身が創作したいから、作者自身が何かを伝えたいから、創作するコンテンツです。いわゆる「メッセージ性の強い作品」を一つ思い浮かべてみてください。それが、このタイプです。これを「表現的コンテンツ」と命名しましょう。
商用的コンテンツには商用的コンテンツならではの規模感と勢いがあります。一方、表現的コンテンツは、個人の思いから生まれる分、まれに、商用的コンテンツには出せない強烈な個性を獲得します。
例えば、荒木飛呂彦先生が「人間賛歌」として描いた巨編「ジョジョの奇妙な冒険」。
あるいは、たつき監督が自らのスタイルを貫き通した結果大ヒットとなった「けものフレンズ」。
こうした表現的コンテンツは、商用的コンテンツとは違った形で歴史に名を刻み、コンテンツという世界の幅を広げてきました。
(2)オタクコンテンツにおいて民主主義は正義なのか?
先に議論した「コンテンツにおける民主主義」は、この先SNSの力をも借りてますます拡大していくでしょう。そうなると、作者の個性を生命線とする表現的コンテンツは、この先どうなっていくのでしょうか。
なるほどコンテンツにおける民主主義は、消費者の求めるものが創作されやすくなるという点で魅力的でしょう。しかし、そのシステムを無差別にあらゆるコンテンツに適用してしまうとすれば、消費者の需要ではなく、作者の思いが命となる表現的コンテンツの芽を、摘むこととなってしまうのではないでしょうか。
よって私は、消費者に節度を求めたいのです。
商用的コンテンツにおいては、コンテンツに自らの望みの実現を求め、それに応えてくれることをもって、当該コンテンツを愛する。それで何の問題もないと思います。それこそ、商用コンテンツの本懐なのですから。
しかし、表現的コンテンツにおいては、まず口を開く前に、作者の表現・創作のありのままを受け止めてほしい。それが気に入らなかったのなら、それを自らの望みに沿う形に矯正させるのではなく、立ち去りましょう。気に入ったら、作者の表現のありのままを、愛しましょう。個人崇拝? 独裁? なんと言われようが、それが表現的コンテンツの、理想のすがたの一つなのです。
そんな消費者の姿勢が、将来のコンテンツ世界の懐を、さらに深いものにするのではないでしょうか。
以上、意外とマジメな感じのシメとなりました。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました!
(おわり)