【アニメ感想】少女☆歌劇 レヴュースタァライト 〜キリンの壮大な二次創作〜
こんにちは。いさおです。
※※※ 最初に言います、超ネタバレ記事です ※※※
レビュースタァライトのアニメが終わってしまった!!!!!ぐああ!!!!
私は悲しい・・・
最終回みました。とてもいい作品でした。
まず音楽がいい。花咲か唄のイントロは優勝できる。
キャラが魅力的。じゅんなながすきです(大声)
各レヴューの舞台装置が魅力的。まひるの舞台装置は固有結界という言説をtwitterで見て爆笑しました。
このアニメのいいところ、たくさん挙げることができます。
中でも一番好きな点を挙げるなら、8話のひかり覚醒回の後半戦です。
第二幕のはじまり、ほんっとうに痺れました!
これまで訳あって弱体化したまま戦っていたひかりが、「華恋とのふたりでのスタァライト」の可能性を胸に、力を一部取り戻す回です。ヒーローものでいうところの新フォームお披露目回。
この後の最強の舞台少女ばななとの戦いぶりもあまりに見事。見終わった後何回も何回もリピートしました!人生で何回とも見れない、素晴らしい戦闘シーンでした。
と思いのままに語っていたら話が進みませんので、
本記事では、一つポイントを絞って本作の感想を書こうと思います。
そのポイントとは、
「キリン(CV:津田健次郎)とはなんだったのか?」
です。
ご存知キリンは夜な夜な学園の地下空間で行われる謎のレヴューの主催者。
本当に謎の存在でしたが、その正体はレヴューの仕組みとともに語られずじまいでした。
特にその存在の根拠を語られるでもなく、しかし強烈な存在感を残したキリン。
その存在の意味について考えてみます。
1. 序盤のキリン
最初はわかりますわかります言うだけのキリンでしたが、ちょっと様子が変わったのが8話です。
ひかりはイギリスでのレヴューの敗北をきっかけに、「レヴューで負けた少女は煌めきを失う」という衝撃の事実に気づきます。ここでキリンに腹黒いイメージがつきました。
さらに10話。真矢クロに勝った華恋ひかりに容赦なくつぶし合いを迫るキリン。
キリンは、この「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という作品の中で、舞台少女たちの道を妨害する、敵役のような存在になっていきます。
2.キリンの突然のカメラ目線
最終回に進むにつれ、本作の展開は、劇中劇「スタァライト」のプロットと重なりを見せていきます。
ひかりは「レヴューの勝者は敗者の煌めきを奪う」という事実を知っているばかりに、自らが勝利し、そして煌めきを全て他の8人に分け与えるという自己犠牲を選択します。それを「運命」と称して。
どうしても、この「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という作品は、「スタァライト」と同じ悲劇的な結末を迎えてしまうのです。
しかし、華恋はその状況を打破します。閉じ篭もったひかりを引っ張り出し、ひかりとの再戦に持ち込みます。
そこで、キリンは突然カメラ目線に。つまり私たちを直視して、こう言うのです。
「舞台とは演じる者と見る者が揃って成り立つもの。演者が立ち観客が望む限り続くのです。そう、あなたが彼女達を見守り続けてきたように。(中略)私はそれが見たいのです!!そう。あなたと一緒に。分かります。」
かなりドキッとしませんでしたか?
これまでレビューという舞台に少女とともに立ち、ある意味敵キャラとして存在感を強めてきたキリンが、いきなり「あくまで自分も、あなた(つまりアニメ視聴者)と同じ観客に過ぎない」と言うのです。
ここで、私たちはキリンに対する理解を否応なく改めさせられることになります。
そう、キリンの立ち位置が、
「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品の一キャラ」
から、
「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品の観客」
にシフトするのです。
キリンは舞台少女と同じ次元にいるのではない。
私たちと同じく、舞台少女たちの戦いを外部から見ているのだと。
キリンにメタ的な要素が加わった、と言ってもいいでしょう。
3.キリンは本作の大ファン
こうなると、本作でキリンが見せてきた行動について、新しい見方ができませんか?
「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品の一キャラ」だと、上記のとおり、キリンは各舞台少女と同じ舞台に立ち、歌劇に勤しむ少女たちの運命を乱す迷惑な奴、という理解ができます。
一方で「『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品の観客」だと、
「思い入れの強い創作物について、どうしても違うエンディングが見たくて別バージョンを自分で二次創作しまくる、熱心なファンとしての姿」
が、キリンに浮かび上がってきませんか?
創作物の観客としての私たちも、思い入れのある作品について、「好きだけど、個人的にはこんな展開の方が、別の終わり方のほうがよかったかも・・・」と思うことってありますよね。卑近な例だと、ラブコメで「主人公にはこのヒロインの方とくっついてほしかった・・・」とか。
その時私たちは、その好みの展開を想像してみたり、あるいは二次創作をしたりします。
キリンはまさにこれを行っていた、そう理解することもできるのではないでしょうか。
現に「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」という作品(の亜種)は、作中で複数回演じられています。
イギリスではジュディが勝利しました。これにキリンは満足しなかった。
日本では何回やってもばななが勝利し、ばななの手によって振り出しに戻ってしまう。これにもキリンは満足できなかった。
そこで、自分の望む「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」にたどり着くための切り札が、イギリスで手に入れた、ひかりという存在だったのです。
劇(revue)「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を再検討(review)し続けて、ようやくキリンは自分の見たかった「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」にたどり着けたわけですね。
本作は、創作物に対する観客の希望を全部叶えたその終着点を描いている、と言えるのかもしれません。
4.舞台少女の不可侵性
上記の通り、本作「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が行き着いた終着点は、キリンの試行錯誤の果てにたどり着いたものでした。
だとすると、本作のキャラ一人一人の行動も、キリンの意図するところによるものだったのでしょうか?
そんなことは決してありえません。
本作のエンディングに至る過程には、
華恋とひかりの昔からの約束がありました。
まひる独特の葛藤がありました。
ばななの強い執着と純那による解放がありました。
真矢とクロディーヌだからこそできる切磋琢磨がありました。
双葉と香子ならではの夫婦喧嘩がありました(あれは夫婦喧嘩としか言いようがない!)。
他にもたくさん、各話でクローズアップされたキャラの熱い想いがあって、本作のエンディングに至ったわけです。
上記の通り、本作は、本作の観客に過ぎないキリンの希望を最大限叶えた作品です。
にも関わらず、本作のキャラたちの想いは、依然キリンのあずかり知らぬところで、独立して動いているのです。
ここに、どれだけ創作物に手を加えても決して観客がたどり着くことのできない、創作物の不可侵性のようなものを見出せないでしょうか。
つまり、どれだけ創作物を自分の手で動かすことができても、所詮観客は、ぬるま湯に浸ってあれこれ声をあげ手を挙げる外野でしかない(最終回で、砂漠をさまようひかりをキリンがオアシスから眺めていたさまは、その隠喩なのでは、と私は解釈しています)。
創作物を彩るキャラの想いは、そのキャラが作り手の手から離れて自律的に抱く神聖なものである、そういう描かれ方が本作ではなされているのです。
以上より、本作は、私たちの化身であるキリンの希望を最大限叶えることで、
逆説的に、私たちには手の届かない、創作物のキャラたちへのリスペクトを強調している、
そう言えるのではないでしょうか。
本作にはこのリスペクトが溢れているからこそ、9人の舞台少女は、あんなにもきらめているのです。
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以上、キリンの立ち位置について、好き勝手につらつらと語りました。
いやでもこんな長文感想じゃなくて、あれいいよね・・・いい・・・(語彙貧)みたいな会話もたくさんしたい、工夫と愛情に溢れた本当に素晴らしい作品でした。
アニメは終わってしまいましたが、舞台、ソシャゲ、マンガとメディアミックスはまだまだ続きます。
これからの「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」に大いに期待しましょう!!!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
(終わり)