【マンガレビュー】BEASTARS 〜ホンネとタテマエへの向きあい方〜
こんにちは、いさおです。
最近コミックのアニメ化がますます盛んになっていますが、そんな中でも特に嬉しいアニメ化が、今年初めに発表されました。
そう、BEASTARSのアニメ化です!
様々な動物が人間のような姿になり、人間のように社会的な生活をしている世界をコミカルに、そしてシリアスに描いた本作。このマンガがすごい!2018オトコ編で2位、マンガ大賞2018で1位と、様々なタイトルを総ナメにしています。
今回は、この作品のレビューをしたいと思います。
動物を直立二足歩行にして、人間と同じ生活をさせるアイデアや、板垣巴留先生のあったかい絵の雰囲気など、たくさんの魅力が詰まった作品です。その中でも本記事では、本作の軸となるテーマの一つと私が考えているものを、切り口にしたいと考えています。
その切り口とは、「ホンネとタテマエ」です。
なお、魅力を最大限伝えたい!との思いの下、微ネタバレを一部含ませています。ご容赦いただけますなら、ぜひお読みください!
1.あらすじ
主人公のレゴシは、演劇部に所属する心穏やかなハイイロオオカミの高校生。
草食獣、肉食獣がともに生活するこの平和な学園で、ある夜、演劇部所属のアルパカが食殺される、つまり肉食獣に食い殺される事件が起こる。
動揺が広がる中、公演直前での演者の死によって急遽代役を立てなければならなくなった演劇部は、禁止されている夜間の練習を行う。体の大きいレゴシは練習場の前で見張りをさせられるが、ある動物に、自らの姿を見られてしまう。夜間練習がバレないよう、抱きかかえるように捕まえたその動物は、小さなウサギの女の子。
穏やかに生きてきたレゴシは生まれて初めて、草食獣のカラダと、自分自身の中に眠っていた強烈な感情を認識するのである。
その感情は、恋心? それとも、食欲?
2.本作の魅力
(1)動物を手段として、人間を描く
あらすじからもおわかりのとおり、本作の大きな題材の一つが、ずばり「食殺」です。
人間のような社会生活を営んで共存している動物にとって「食殺」とは、人間でいうところの殺人と同じ、タブーです。しかし、動物には肉食獣/草食獣という区切りがあり、その間には、食う/食われるという関係がはっきり存在します。動物たちは、自らの抱える本能を克服しながら、社会生活を営む必要があるのです。
また、いくら人間のような姿をしていると言っても、オリジナルは動物です。カラダの大きさも、色も、毛の多さも、生態も全然違います。人間の外面的な違い(肌の色など)と比べると、互いの違いの大きさは一目瞭然です。よって、例えば差別のような問題も、さらに深刻なものになる可能性があります。
ここまで書くと、いかかでしょう、「動物が社会生活を始めるとどうなる?」という思考実験のような、一種のファンタジー作品に感じられるのではないでしょうか。
しかし、上記のような動物の社会生活の難しさは、本質的なところで、人間の社会生活の難しさと一致するのです。
例えば、本作の重要なシーンであり、別のアニメPVでもチラ見せされた、以下の一コマ。
夜に捕らえたウサギ、ハルに対してレゴシが抱く恋心へ投げかけられる、鋭い指摘です。
恋心を「相手を思い、求める心」と定義するならば、それは、この世界で肉食獣が草食獣に対して抱く食欲と、どう違いがあるというのでしょうか?
容易には反論しがたい指摘です。
しかし、同じような問題は、人間の恋愛にも見られます。
この世で「恋愛」と呼ばれるものは、必ずしも「相手のことが好き」という純粋な気持ちから成るものではありません。「そろそろ彼氏/彼女を作っておきたい」、「体裁が悪いから結婚はしたい」、「ヤリたい」etc.... そんな気持ちがないまぜになって成立する「恋愛」も、一定割合存在します。しかしそれは、本当に「恋愛」と言えるものなのでしょうか?
「恋愛」というタテマエと、そこに見え隠れするかもしれないホンネ。この図式が成立しているという点において、レゴシが受けた指摘も、人間の恋愛も同じようなものなのです。何か別のホンネが変形して、「恋愛」というタテマエの姿をとっているのです。
余談ですが、下品ながら「(異性を)食う」という言い方を、たまに人間もしますね。示唆的です。
このように、本作、動物特有の悩みや事情を描いているようで、実は、人間が日頃から抱く悩みや事情を描いている場面が多く見られます。
そして、外形的には動物を題材にしていることで、人間の悩みや事情がより克明に(なんたって「食う/食われる」という命のやり取りに話に転換されていますし)、そしてどこかコミカルに再現されているのです。
人間を描いているわけではないのに、人間を描くよりも濃いヒューマンドラマが成立しているのです!
(2)タテマエとホンネの問題にどう向き合うべきか?
本作のヒューマンドラマぶりを紹介するために、「ホンネとタテマエ」という話をしました。この「ホンネとタテマエ」という問題は実は、「食殺」という特徴的な題材を通して、本作ががっぷり四つに組んでいる重要なテーマでもあります。
というのも、この動物の世界は、肉食獣が「草食獣を食べたい」というホンネを、「草食獣とは仲良くしなければならない」というタテマエで潰すことで、危うく成立していまるのです。ホンネを「本能」と言い換えるとさらに分かりやすいでしょう。
しかし、「草食獣を食べたい」という肉食獣のホンネは、いわば肉食獣のアイデンティティー。肉食獣であるからには、そのホンネを完全に潰すことはできません。
そこで、物語の序盤で、「裏市」というエリアの存在が明らかになります。ここでは、葬儀屋や病院から横流しされた草食獣の肉が売られており、一定数の肉食獣は、ここに通うことで自分のホンネを満足させ、表舞台では、タテマエに従って生きているのです。つまり、ホンネを潰すのではなく、タテマエで隠している、というのが正確な言い方です。
レゴシは、ウサギのハルに恋心(?)を抱いています。
その恋心を本当の恋心たらしめるならば、上記のホンネを生かしたまま生きるなど、レゴシにとって許されるものではありません。恋心に誠実に生きるならば、自らに眠るホンネ(=食欲)は、潰さないといけない。しかし、自分が肉食獣である以上、そのホンネを完全に潰すことは、不可能に等しい。そのジレンマに、レゴシは苛まれていきます。
一方で、同時に考えるべきなのは、ホンネを潰すことは、そもそも「誠実」と言えるのか、という問題です。
「肉食獣」であることは、レゴシのアイデンティティーです。それを潰すことは、もはやレゴシを別物の何かにすることといってもいいでしょう。ホンネを無事潰してハルに向き合ったとして、果たしてそれは、「本当の自分をハルに見せている」と言えるのでしょうか?それは、もはやウソの自分なのではないでしょうか?
そう、レゴシがこの歪んだ世界でハルに向き合うことは、八方塞がりで不可能な行為と言っていいのです。
この「タテマエとホンネ」という話題について、もう1つ問題を提起しましょう。
先ほど、「この世界は肉食獣のタテマエのおかげで成り立っている」旨記載しました。だとすれば、肉食獣が開き直って食殺に走れば、この世界は崩壊してしまうのでしょうか?草食獣は、この世界を維持するために何もできないでしょうか?
本作では、レゴシと対になる存在として、ルイ、というシカが登場します。彼は演劇部のエースで、肉食獣をも引っ張るカリスマ性の持ち主です。そして、草食獣が活躍できる世界を渇望しています。
それゆえ、肉食獣がホンネを隠すことでやっと成立しているこの世界の歪み、そして、自らが肉食獣であるレゴシと違って、そんな世界に対して何もできない自分の非力さに、ルイは苦しむのです。
肉食獣の歪んだ生き方に依存したこの世界の中で、レゴシは「肉食獣」としてどう振る舞い、ハルに向き合えばいいのか?
そして、ルイはそんな世界に対して、どのような形で、どのような影響を与えることができるのか?
この2つの問いは、レゴシ、ルイ、ハルを中心に据える群像劇の中で複雑に絡み合います。そして、やがて明らかになる演劇部食殺事件の真相を経て、「ホンネとタテマエ」に支配された世界への向きあい方をめぐる、一つの答えに収束していくのです。
ぜひ、レゴシたちの見出した答えを、そしてその答えに続く曲がりくねった道のりを、その目で見届けてください!
本当に、読み応えのある作品です!
3.まとめ
BEASTARS1巻には、板垣先生のこんな言葉が掲載されています。
「これは動物漫画のヒューマンドラマです。
・・・緊張のあまり矛盾言葉を口走ったのではありません。」
「ホンネとタテマエ」という人間が抱える問題を、肉食/草食という区分けを題材に克明に描く本作は、紛れもなく、ヒューマンドラマです。
未読の方はぜひぜひ、ご一読ください!
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
(終わり)